夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

チェンソーマン<感想>② 第1部を読んだ結論らしきもの。

チェンソーマンは感想①を書くのに、ほぼ丸一日かかってしまうほど難産でした。

面白いんだけど、その面白さを言語化できないーーー何が面白いかを自分自身が咀嚼しきれないという、不思議な作品です。

①を書いてから、気持ちが熟成してきたので続きを書きました。

 

チェンソーマンはバトル漫画ではない>

当初、悪魔とヒトのバトル漫画かと思いながら読み始めたが、すぐにそうではないことに気づいた。

「勝ち負け」が重要なバトル漫画では、そう簡単にキャラクターが復活したりしない。

倒した敵が再び立ち上がったり、流血して死んだ味方が何事もなかったかのようにピンピンしていては、いつまでも「勝負」がつかないからだ。

 

また、バトル漫画において「自らの命を投げ売って味方を救う」というシュチュエーションは、普通そう何度も使えない。

たったひとつしかない命を捧げる行為は、作品の大きな山場。

それを繰り返しては、命の価値が軽くなりすぎ、読者のカタルシスが削がれてしまう。

 

チェンソーマンは、この「普通の作品作り」ぶっ壊したところからスタートする。

 

チェンソーマンは選択の物語>

チェンソーマンの世界では、生死はさして重要ではない。

 悪魔は地獄で死んで、この世に転生する。

 ヒトも死んで、悪魔と一体化すれば魔人として生きながらえる。

そもそも数多く描かれる死につながる場面ーーー例えば、悪魔との契約で体の一部を失ったり、悪魔の攻撃で手足をもがれるなどーーーは、痛みや苦しみを感じさせない極めて淡々とした描写だ。

 死が特別でない世界で、一体何が大切なのか?

 

チェンソーマンで最も重要なのは、「意味を与えること」「選択すること」だ。

 誰とどんな関係を結ぶのか。

 いつ、どんな発言をするのか。

 誰を愛し、誰を憎むのか。

人が何か(誰か)と出会ったとき、それをどう定義するか(意味をあたえること)。

その関係を続けるか、断ち切るか。(選択すること)

チェンソーマンは、それをそれぞれのキャラクターが繰り返す物語なのだ。

 

ただ、ここで注意したいのは「意味を与える」のは自分一人で決定できないことだ。

相手がいる以上、相手がこの関係をどう定義するかで、選択肢は変わる。

関係は一対一である場合もあるし(恋人やバディ、兄弟など)、その他大勢である場合もある(メディアの情報で自分を知った、直接関わりのない人々など)。

 

意味を与えること、選択することはつまり「この世界をどう捉えるか」だ。

世界は人の数だけ様々な意味を持っている。

そこに溢れるモノやサービス、娯楽も様々な消費のされ方をする。

そこで、デンジという「普通の人間から見れば不合理で、訳のわからない行動をする」主人公が暴れまわる。

 

デンジの行動は「訳がわからない」故に、読者の「世界への認識」を揺るがせる。

常識で凝り固まったものの見方から強制的に引き剥がされて「別のものの見方がある可能性」の前に立たされる。

 

デンジが子供のように情緒が未発達の主人公として登場したのは、彼が世界と出会い、倫理や道徳から自由な状態で、どのように意味を獲得していくかを描くためには必然だったのだ。

同時に、デンジ自身にとっても起きた物事は常に多面的な意味を持ち、「今」は正しいと思った選択が、将来も正しいかどうかわからないーーー意味は常に変化し続けることも示唆されている。

 

第一部では、デンジが世界をどう認識するのか、いくつかの方法が示された。

第二部では、手に入れた方法を使って、彼が望む世界の姿が読者の前に立ち現れてくることになるのだろうか?

 

二部が再開したとき、この感想がまったくの的外れになっている可能性があるのが、とてもワクワクする。

 

 

 

 

 

 

 

チェンソーマン<感想>① first impression

藤本タツキ著・ジャンプコミックスチェンソーマン」第1部

(1巻~11巻)読了、感想を。

 

<「チェンソーマン」の特異な点>

これは一気読み推奨の漫画だ。

文字通り「命を賭けた」、ド派手なバトルが圧倒的スピード感で描かれていて、各キャラクターに感情移入するヒマがない

それでいて、ドライで殺伐とした中に感傷的になるシーンがそっとさし挟まれていて、読む者の胸をざわつかせる。

(デンジがレゼと夜の学校を探検するシーンや、銃の魔人と化したアキとデンジが戦う“雪合戦”のシーンなど)

 

読んでいて驚くのは、「死があまりにも“あっさり”している」こと。

悪魔や魔人たちが、死んだはずなのに蘇ってくる設定も影響しているが、そもそも死ぬ瞬間に「もっと生きていたかった」と望まぬタイミングで命を奪われる自分を憐れむ描写がない。

同時に、各キャクターにとって大切な存在が容赦なく死んでいくが、直接的な悲しみの描写もほとんどない。

 泣きわめいたり、身を絞るように絶叫したりしない。

 後悔して自分を責め、後を追おうとすることもない。

どのキャラクターにとっても死は身近で、日常生活と地続きなのだ。

このドライな生死感が、作品世界で起こる凄惨な殺戮を、読者が驚くほど平穏な気持ちで読みすすめることに寄与している。

 

フィクションを味わうとき、人は登場キャラクターに共感(または反発)してその世界に入り込む。

自分の身体を使って得た経験と、そこから派生した想像力でフィクションと自分の間を埋めていくのだ。

チェンソーマンの特異な点は、この共感を意図的に断ち切っているところにある。

 

主人公デンジは、不幸な生い立ちから、満足な教育が受けられず情緒の成長が止まっている。

(初登場時は、せいぜい小学校高学年程度といったところだろうか)

倫理観も責任感も薄い。彼の興味は常に自分だ。

 自分に優しくしてくれる人=良い人

 美味しいものをくれる人=良い人

 その反対が悪い人、だ。

一見、簡単でわかりやすいが、現実世界で暮らす我々は、そう単純には生きていない。

デンジの選択と行動は「普通、そうはならないだろう」の連続なのだ。

 

 仕事と衣食住を保証してくれたマキマをすぐ好きになる。

 マキマのことが好きなのに、レゼのことも好きになる。

 大量殺人をしたレゼを復活させ、一緒に逃げようと誘う。

 

うまい話には何か裏があるのでは?

好きな人がいるのに、他の人を好きになるのは不誠実では?

そんな「常識」から自由なデンジは、少年マンガ誌にあるまじき「欲望に忠実な主人公」なのだ。

デンジの造形は、読者の共感を拒絶するところからスタートしている。

 

 

<最も人を理解するモノーーー悪魔>

悪魔は人の恐怖を糧にして強くなる。人が悪魔を恐れる限り、何度でも蘇る。

そうである以上、いかに人の恐怖を掻き立てるかが悪魔の腕の見せどころだ。

だから訳のわからないーー「普通」の人間と違った行動原理をもつ者を悪魔は恐れる。

デンジが「最もデビルハンターに向いている」所以だ。

 

第80話「犬の気持ち」で、マキマがデンジに向かって言う。

「私に叶えて欲しい事を言ってみて」

デンジにとっては待ちに待った瞬間で、当初の目的だった「セックスしたい」でも何でもーーー「言えば叶う」千載一遇のチャンスだった。

そこでデンジが放ったのは、まさかの「犬になりたい・・・マキマさんの・・・」という言葉だった。

たった一度しか無い機会に、自分の頭で考えること放棄してしまったのだ。

 

続く第81話「おてて」で、マキマはデンジに聞き返す。

「私の犬になりたい?それってどういう事?」

「本気で言っているの?私の犬は言う事絶対聞かなきゃいけないよ?」

この時点なら、まだデンジは前言を撤回することができた。

マキマもそれを望んでいたフシがある。

しかし、デンジは「自分の思考を停止し、マキマの命令通り生きること」を選ぶ。

 

マキマにはふたつの目的があった。

ひとつはチェンソーマンを支配して、この世から「死」「戦争」「飢餓」を消し去り「より良い世界」を作ること。

もうひとつはチェンソーマンに食べられ、彼の一部になること。

注目すべきは、マキマにとってこのふたつの目的には優劣がないことだ。

 

マキマの能力は「自分より程度が低いと思う者を支配できる」だ。

つまり、マキマ自身が相手を見下したり、見限った瞬間に能力が発動する。

デンジが真の意味でマキマに支配されたのは、「マキマの犬になる」と言った言葉を撤回しなかった瞬間なのだ。

デンジが彼自身の自由な思考を手放した時、彼の「訳のわからなさ」は消え去ってしまったのだから。

 

<得るもの、失うもの>

借金に追われ、明日食べる物にも事欠く生活を送っていた頃、デンジが望んでいたのは「今日をなんとか生き抜くこと」。

ただ“生命を維持する必要最低限のもの”を得ることに注力していれば良かった。

次にデビルハンターになり、衣食が安定して手に入るようになって望んだのは「女性の胸を揉みたい。」

食欲の次は性欲といったところだが、苦労の末ようやくパワーの胸を揉んだデンジの感想は「こんなモン・・・?」だった。

 

 ずっと追いかけて来たものを手に入れても、大したことはなかった。

 手に入れる前ーー欲しいと望んで追いかけていた頃の方が幸せなんじゃないか。

落胆するデンジに対して、マキマがかけた言葉はこうだ。

「デンジ君、エッチな事はね、相手の事を理解すればするほど気持ち良くなると私は思うんだ」

 

ここで描かれているのは、単なる男女の性行為に至る心の機微ではなく、

物事の価値を決めるのはそれが持つ「意味」だということ。

誰とするか。どんなシュチュエーションか。その時の気分は。

同じことをしても、そこにある「意味」によって、その体験は忘れられない素晴らしいものにも、忘れたい最悪なものにもなり得る。

 

第84話~で悪魔の恐怖を一身に集めたチェンソーマンは最強の存在になり、マキマ率いる「人でも悪魔でも魔人でもない者達」をいとも簡単に蹴散らす。

しかし第89話「がんばれチェンソーマン」でチェンソーマンが世間に認められ、キャラクターとして消費されるようになると、みるみるその力を失っていく。

マキマ曰く

「悪魔達の恐怖が貴方に力を与えました。今それを人間達に食べてもらっています」

悪魔個々がチェンソーマンに自らの身体を切り裂かれ、蹂躙される中で抱く「実感を伴った恐怖」と、メディアによって垂れ流される「不特定多数の情報によって作られたイメージ」。

前者は「意味」の集積、後者は拡散だ。

大衆によって拡散しきって希薄になったチェンソーマンのイメージは、パワーという個人ーーデンジにとって、バディであり友達という唯一無二の存在が持つ記憶によって集積し、復活を果たす。

 

パワーにとって、チェンソーマンは「地獄のヒーロー」ではなく、自分の同居人であるデビルハンター、デンジの属性のひとつでしかない。

大衆は、世間に流布する情報を常に消費しては捨て去っていく。

対して、個人は固有の体験を、「意味」として自分の中に蓄えていく。

「デンジ、これは契約じゃ。ワシの血をやる。代わりに・・・ワシを見つけに来てくれ」

パワーは、自分とデンジが共有した体験を決して手放さないーーそして、デンジにもそれを求めて消えていく。

チェンソーマンは、劇中で得たもの、失ったものに「どんな意味を与えるか」という物語なのだ。

 

<マキマとの最後の戦い>

復活したデンジは、チェンソーマンとしてのポチタと、人間としてのデンジに分離した状態でマキマとの最終決戦に臨む。

 

デンジが再びチェンソーマンになるに至った原動力は「欲」だ。

TVから流れる、チェンソーマンを称賛する声。

映し出される「チェンソーマン!!つきあって!!!」という女子高生が掲げるプラカード。

それを見たデンジは、素直な欲望を吐露する。

女性からモテているのが気持ち良いこと。

貧乏時代にあれほど憧れたジャム付き食パンに飽きていて、本当は毎日ステーキが食べたいこと。

彼女が10人くらい欲しくて、セックスしまくりたいこと。

「だからチェンソーマンになりたい」

欲望を叶えるためなら、大好きなマキマも殺す。

 

単純で原始的な欲望を持つ者が、一番ブレがない。

ひとつの物事を多角的に考えるーーー色々な意味を与えてしまうことが、迷いにつながり、結果弱さになる。

 

物事に意味を与えること、それがすなわち「名付け」だ。

悪魔はその「名」によって、恐怖を引き起こす。

銃、爆弾、弓矢、刀といった武器ーーそれらは本来ただの道具で、恐れを感じさせるものではない。

武器によって、傷つけられ命を奪われるイメージが恐怖を生む。

支配、地獄、宇宙、呪い、未来といった「それそのもの」が人を傷つけるものではない存在も、人の想像力ーーー見えないものを見ようとする力が人を脅かす。

 

名前を得ることは、やがてその名前が使われた様々な事象がイメージの渦になって流れ込み、膨大な属性を持つことにつながるのだ。

 

チェンソーマンの力は、「食べたものの存在をこの世から消してしまうこと」。

名前を失ったものは認識できない。認識できないものはこの世に存在しない。

イメージの奔流を断ち切れる存在ーーーだから、チェンソーマンは悪魔から恐れられる。

 

デンジが誰かに理解され、他人と共通の経験を積み重ねるーーー常識の範囲に収まってしまうことを、マキマは許さない。

チェンソーマン自体が、名前に縛られることがあってはならないのだから。

 

デンジは、戦闘による勝ち負けではなく「いかなる攻撃でも死なないマキマを、バラバラにして食べることで、ひとつになる」という結末を選ぶ。

 

マキマがデンジと融合することを拒むなら、デンジの体内から彼を破壊したり、排泄物から復活することもできただろう。

しかし、マキマはそれを受け入れた。

最終話「愛・ラブ・チェンソー」冒頭を読むと、デンジはマキマを調理して、内臓や髪の毛一本に至るまで残さず食べきっていることがわかる。

そしてそれは、攻撃や復讐ではなく純粋に愛による行動なのだ。

支配の悪魔にとって、ずっと望んでいた「他者との対等な関係」を築けた瞬間。

それは彼女自身が、「支配」から解放された瞬間でもあった。

 

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※オマケ

なぜ「チェンソーマン」では最強の悪魔がチェンソーなのか。

 

爆弾や銃の方が強いのでは?遠距離から狙えるし・・・一度に沢山殺せるし・・・と思っていたけれど、逆に「だからこそ」チェンソーなのではないか。

つまり、チェンソーで殺すとき、ターゲットにかなり近づかなければならない。

切り刻んでいる間、相手はすぐに死なない。

刀や剣で斬った時のように傷口がキレイではないので、相手の飛び散る血肉を浴びることになる。

苦しみ悶えながら絶命する様を、見届けなければならない。

相手の生命を奪っている実感と罪悪感を、より強く感じるーーーそこから逃れられない(しかも、チェンソーは本来武器ではない!)のだ。

 

ブウンと唸るエンジンがカッコいいとか、ホラー映画へのオマージュとか、もちろんわかった上で、そんなことを考えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新世紀エヴァンゲリオンTV版からシン・エヴァまでを振り返る③

<旧劇ーーTV版、新劇との断絶>

ラストに至る道のりは違えども、主張は同じだったTV版と新劇。

しかし、旧劇(Air/まごころを君に)だけはその性格を大きく異にしている。

 

旧劇は、ひたすらシンジが

「誰か、僕に優しくしてよ」

「怖いんだ、嫌われるのが怖いんだ」

「誰か、僕を助けてよ!」

と他人に救いを求め、それでいて差し伸べられた手をすべて払いのける物語だ。

 

エヴァに乗らない僕には価値がない。でも、もう1度エヴァに乗るのは怖い。

堂々巡りに陥ったシンジは、自分の精神世界に閉じこもったまま、あらゆる決断を放棄する。

自分が戦略自衛隊に殺されるかもしれない局面でも、逃げも隠れもしない。

ただ屍のようにそこに「ある」だけだ。

 

ミサトが文字通り命を賭けて彼を救出しても、シンジはめそめそと泣くだけ。

ミサトの遺言を受け止めて奮い立つわけでも、自分からエヴァに乗るわけでもない。

突如動き出した初号機に導かれるまま、搭乗席に座ったに過ぎない。

 

<だからみんな、死んでしまえばいいのに・・・>

旧劇のポスターに書かれたキャッチコピーそのままに、救いのないストーリーが展開していく。

戦自に蹂躙されるネルフ本部、量産機に惨殺されるアスカ、それを見て精神崩壊するシンジ。

 

TV版最終回後に巻き起こった庵野監督へのバッシングが、旧劇を暗く覆っているのは間違いない。

他人による悪意と攻撃を「ネット空間で飛び交う庵野監督への罵詈雑言」の形で映画に取り込み、この映画をスクリーンで鑑賞中の観客さえ客体化して見せる。

 

現実とフィクションの相克をこれほど生々しく描いたのは、当時の庵野監督の精神状態が色濃く反映されているからだろう。

たとえ傷ついても、他人と一緒に生きていきたい。

TV版で描かれた結論を無邪気に踏襲するには、他人の悪意を浴びすぎたのだ。

 

TV版最終回で、大勢の登場キャラクターに囲まれ「おめでとう」と祝福の言葉を浴びたシンジ。

「ありがとう」ーー晴れやかなシンジの笑顔は、視聴者に「良くわからないけれど、ハッピーエンドだったんだな」と思わせるに十分だった。

 

それに対し、旧劇はLCLの海から再び実体化したシンジが、「たった一人の他者」として実体化したアスカの首を締める。

旧劇のシンジは、他者への恐怖を克服できていないのだ。

ーー自ら他者がいる世界を望んだにもかかわらず!

 

そして何より、ユイと初号機の存在が旧劇だけ異質なのだ。

ユイは「いずれ人類が死に絶えてしまっても、初号機の中で自分の魂が生き続ける限り、人類が生きた証は残る」と言っている。

ロンギヌスの槍をたずさえて宇宙空間を遠ざかっていく初号機は、さながら新劇の「生命の方舟」のようだ。

しかし、初号機の中にあるのは「すでに肉体的には死を迎えた、ヒトの魂」だけなのだ。

息子を救うでもなく、人の生命の痕跡として永遠に宇宙空間を彷徨うことを選んだユイ。

その痕跡を、一体誰が見つけてくれるというのだろう?

 

「他者とともに生きていく」という結論は辛うじて守り抜いたものの、他人を信じることができず、誰も救済できなかった旧劇。

 

ここまで庵野監督を追い詰めた当時の「視聴者の悪意」に戦慄を覚えるとともに、あの頃、今のようなSNSがあったら・・・

本当に庵野監督は自ら命を絶っていたのではないか、という恐怖を感じる。

 

そして同時に、これほどの「どん底」を経験しても、25年の時を経てキャラクター全員に納得できる結末を用意した庵野監督の誠実さと、作品への愛情(というにはあまりに重いーーむしろ作り手としての責任感か)に胸を突かれるのだ。

 

※新劇で突如登場した「ネブカドネザルの鍵」や「ゴルゴダオブジェクト」で顕著だが、エヴァに登場する思わせぶりな小道具は「思わせぶり」以上の意味はない

 

しかし、TV版の頃から、作中に散りばめられた聖書由来の小道具たちの謎を解き明かそうとする一部のファンの存在が、エヴァを肥大化させていった。

考察という名の、「耽溺」としか言いようのない執着ーーー作り手も、視聴者も、キャラクターたちも、それに縛られ苦しめられてきた。

旧劇は、その最も苦しい時期に創られた物語であるがゆえに、あのラストしか選べなかったのだ。

 

シン・エヴァが、執着からの開放ーー現実社会への帰還を成し遂げた清々しさに溢れているのを見るとき、想起するのは映画が終わり、明るくなった客席だ。

ずっと映画館に居続けることはできない。席をたち、日常生活に戻らなければ。

しかし、映画から得た衝撃や感動は「いつもの日常」に持ち帰ることができる。

映画館の中より、外は眩しく明るい

そんな当たり前のことを視聴者に届けるのに、25年を要したーーー。

それこそがエヴァの新奇性であり、また特異な点だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新世紀エヴァンゲリオンTV版からシン・エヴァまでを振り返る②

<TV版とシン・エヴァの違い>

では、TV版とシン・エヴァで異なっている点は何か?

 

決定的な違いは、14歳の少年・少女を取り巻く大人たちのスタンスだ。

 

TV版に登場する大人たちは、外見上は「大人」だが、内面は14歳の少年・少女とたいして変わらない。

ネルフ側で最年長者として描かれる冬月コウゾウでさえ、TV版では自分を「俺」と呼称し、精神年齢は40代そこそこといったところだ。

(ちなみに設定上の年齢は、TV版時点で60歳である)

 

シンジの保護者役を担っていたミサトは、セカンドインパクトのトラウマに苦しむあまりシンジのケアを放棄し、彼女自身が加持に救いを求めて「保護される側」へ回る。

リツコも母親への複雑な思いをゲンドウとの歪んだ恋愛によって克服しようとした結果、裏切られて命を落とす。

 

子どもたちを支えるべき大人が、自分の苦しみを乗り越えられずに自滅してしまうのだ。

 

自滅の果てに「すべての苦しみをリセットして、全人類がひとつに溶け合い、欠けた部分を埋め合って救済されよう」としたのがTV版の人類補完計画だった。

つまり、TV版ではすべての登場キャラクターにとって人類補完計画は必要不可欠なものだったのだ。

 

それに対し、シン・エヴァ人類補完計画を必要としているのはたったひとり。

碇ゲンドウだけだ。

 

長い長い第3村での描写は、シンジが自分の価値を確認するための大切なプロセスだった。

みんなが僕に優しくしてくれる。僕を必要としてくれる。

生きていて良いんだ。

そしてそれは、きっとこの世界に存在するすべてのヒトに共通なんだーーー。

 

※第3村で描かれたのは、この村に暮らすあらゆる人は役割を持ち、支え合って生きているという姿だ。

はっきりとした「職業」が描かれたトウジ・ケンスケは勿論、アスカも、「そっくりさん」も。

そして「労働」に参加できない松方の奥さんも、出産という大仕事を成し遂げている。

 

それに続いて描かれたのは、ニア・サードインパクト~サード・インパクトの始末をつけようとするヴィレの姿だ。

 

シン・エヴァのミサトは、自分の意志で決断し、すべての責任を負う艦長として描かれている。

その傍らにいるリツコも、お洒落やメイクを捨て、副官の役割に徹している。

他人に頼り、救いを求めるーーー恋愛に右往左往する「女」はそこにはいない。

 

そして、注目すべきは冬月コウゾウのスタンスの変化だ。

 

TV版ではゲンドウと目的を同じくしていたが、シン・エヴァでは人類補完計画を俯瞰する立ち位置にいる。

計画が破綻することを予見し、諦観しているのだ。

 

冬月は死んでしまったユイと再会することを望んでいる。

しかし、再会した先に「未来」がないこともわかっている。

最初から上手くいくはずのない計画に協力したのは、望みを捨てきれない自分の弱さであり、エゴイズムであることを自覚しているのだ。

 

ーーーやれることはすべてやった。

仮にその先ーーー死者を蘇らせるという自然の摂理に反しても、未来を掴み取れるとしたら、それはユイが夫に選んだゲンドウ、もしくは彼女の息子であるシンジにしか成し得ないからだ。

 

だから、冬月は自分の役割を全うしてLCLに還っていく。

※最期に「君の欲しいものは集めてある」とマリの手助けをするのは、彼の台詞を借りるなら「人には常に、希望という名の光が与えられている」「だが、希望という病にすがり、溺れるのも人の常」だから。

ーーーユーロネルフによるオーバーラッピング対応型のエヴァのパーツ開発。

それがエヴァ・オップファータイプとの戦闘に備えてであることは明白で、最悪の事態を迎えても、人は乗り越えようと足掻く力があることを示している。

 

ゲンドウが自ら「神」になることで望みを叶えようとしたように、人は人の創り出したモノで、神にさえ対抗しようとする。

どちらが未来を手にするかは、その想いが勝った側ということなのだろう。

 

シン・エヴァで描かれた大人たちは皆、自分の行いに自分でケリをつけた。

TV版と役割が変わらなかった大人は、碇ゲンドウだけなのだ。

 

そのため、最終決戦がシンジとゲンドウによる初号機VS十三号機であったことは必然だった。

 

大人としての責任を果たさず、“”最愛の妻を蘇らせるという妄執”に囚われた父との対決。

自分の殻に閉じこもって出てこないーー外界との交流を断ち切っているゲンドウに、まずは自分と対話するように告げるシンジ。

 

TV版が「シンジが他人を受け入れる話」だったのに対し、シン・エヴァ「ゲンドウが他人と向き合う話」だったのだ。

 

★TV版製作時は、庵野監督がまだ若かったこともあり、大人のキャラクターは庵野監督の実年齢に近い精神状態で描かれた。

シン・エヴァのように、自己嫌悪と後悔を飲み下して、それでも諦めないーーー自分の人生に自分で責任を負う大人の姿を描くには、やはり25年の歳月が必要だったのだと思う。

 

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新世紀エヴァンゲリオンTV版からシン・エヴァまでを振り返る①

新世紀エヴァンゲリオンTV版(全26話)、旧劇(Air/まごころを君に)、新劇(序・破・Q・シン)を再視聴したので、改めて感じたことを。

 

エヴァンゲリオンとは、そもそも何だったのか>

BSで放送されていた新世紀エヴァンゲリオン(TV版)を録画して視聴していたが、全話見終わった。

 

俗に言う「おめでとうEND」を改めて見た感想は、「決して悪くない。」

むしろ限られた時間と予算の中で、出来るかぎり誠実に作った結果だったのだと感じた。

 

TV版と新劇で描かれていること、その方向性は、25年経っても変わらない。

エヴァンゲリオンは、TV版できちんと完結していたのだ。

 

TV版で物議を醸した作画崩壊(突然エンピツ描きにコピック彩色のラフ画のようになる描写)だが、それは完成品が間に合わなかったので、製作途中のものを公共の電波に乗せてしまった放送事故ーー25年前はそう思われていたーーではなかったのだ。

 

シン・エヴァを見れば明らかなように、これはエヴァンゲリオンフィクションの世界=他人によって創られた物語であることを視覚化するための手段だ。

つまり、極めて意図的にこれらの乱暴な作画が行われているのだ。

これは、シン・エヴァのラストで初号機と十三号機が特撮セットの中で戦闘するシーンで「あえて作り物めいたクオリティを残した」のと同じ手法だ。

 

※TV版ラストでも、シン・エヴァで見られた「TV局のセットの中で、キャラクターが喋る」演出がすでになされている。(!)

 

エヴァンゲリオンで描かれた最も強いメッセージは

「自分の中に閉じ籠もれば、傷つかなくて済む代わりに、自分の価値、生きる意味を見失ってしまう。

なぜなら、人は他人との関わりの中で初めて、自分がどんな人間なのか知ることができるからだ。

自分を好きでない者は、他人に優しくできない。他人を受け入れられない者は、自分を赦せない。

すべての人を隔てる壁が取り払われ、ひとつに溶け合っても孤独が癒やされることはない。そこには自分ひとりしかいないのだから」

 

使徒は人類にとっての敵であり、人類の別の可能性ーー「自分にとっての他人」を強烈な形で視覚化したモノだ。

ATフィールドは他人を拒む心の壁。自分を「自分の形に保っている殻」

 

重要な物語上のアイテムは実はこの2つだけで、それ以外のーー例えば生命の樹死海文書、アダム、リリスといった「謎」は物語に深みを与え、ラストまで視聴者を惹きつけるための「最初から正解などない、思わせぶりな謎」でしかないのだ。

 

※そのため、散りばめられた「謎」はTV版、旧劇、新劇で少しずつ異なる。

それぞれの物語を成立させるために効果的だと思われる「意味」をその都度与えられているので、一貫した役割を持たないのだ。

 

極言すると、細部の「謎解き、考察」は無意味=破綻が最初から約束されている

製作者が破綻しても良い、それより面白さを追求するべし、と思い定めて作っているのがエヴァだからだ。

 

人造人間エヴァンゲリオンは、最も多感な時期である14歳の少年・少女の揺らぐ自我をヒトの形に留めるための、強力なATフィールドを具現化した姿なのだ。

エヴァンゲリオンが1万2000枚の特殊装甲で鎧われていることは、逆説的に14歳のこころの脆弱性を際立たせているとも言える。

 

→②へ続く

 

 

 

シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>⑥碇ゲンドウについて・後編

ゲンドウとシンジ

親にとって、子供は予測不能な生き物だ。

突然泣き出したり、駄々をこねたりする。

日々めまぐるしく変化し、成長する。

自分と妻の間に生まれたはずなのに「別の人間」で、親の思い通りにはならない。

その上、子供を産んだことで自分だけのものだった妻が「母」になってしまう。子供は今まで自分ひとりに向けられていた妻の愛を、奪い取る存在なのだ。

 

子供を持ったことで、変質してしまった最愛の女性。それは、初号機がゲンドウの思い通りに動かないシーンで示唆されている。

 

他人とうまくコミュニケーションがとれないゲンドウにとって、他人は煩わしいもの、静かな自分の心を乱すノイズのような存在だった。

自分だけの世界に閉じ籠もり、他人を必要としなければ決して傷つかない。

空気を読んで無理に迎合しようとするから、心をすり減らせてしまうのだ。

そこに現れたユイだけが、ありのままの不器用な彼を受け入れてくれた。

ユイは彼にとって、今まで彼が拒絶し、壁を作ってきた「社会」へ向けて初めて開いた「窓」であり、自分という人間を全肯定してくれる女神だったのだろう。

 

初めから何も持たない者は、奪われることはない。

しかし、一度大切なものを得た後それを取り上げられたなら、人はその喪失感に耐えられない。

  

「世界を崩すことは造作もない。だが作り直すとなるとそうもいかん。時と同じく世界に可逆性はないからな。人の心にも。だから今、碇は自分の願いを叶えるために、あらゆる犠牲を払っている。自分の魂もだ。」

 

冬月の言うように、ゲンドウにとって世界の崩壊はユイを失うことで起きた。

一度他人に受け入れられることを知り、その温かさ、心地よさを味わってしまえば、それ以前の「孤独でいても平気」な世界へは戻れない。

ユイと再び会うためなら、ゲンドウは自らヒトを捨てることも厭わなかった。

ユイこそが、ゲンドウにとって永遠に変わらない「完全なる世界」を具現化した存在だったからだ。

 

人類補完計画を完遂する手駒として呼び寄せたシンジを、ゲンドウは自分の用意したシナリオ通り他のエヴァパイロットと交流させる。

レイやアスカ、カヲルと触れ合い、友情を育むシンジ。しかし友人たちは次々に戦いの中で再起不能に陥っていく。

そして旧劇では惣流アスカ、新劇ではアヤナミレイ(仮称)を失った時、ついにシンジはユイを亡くしたゲンドウの心を追体験する

 

ゲンドウにとって、最愛のものを奪われた喪失感こそが、「欠けた存在」である人類を補完する動機だ。

神との契約を遂行するために、儀式のトリガーとなるシンジも「なぜ人類補完計画が必要なのか」、身をもって知っておく必要がある。

シンジに圧倒的な喪失を経験させ、それを埋めたいという渇望を抱かせる。すべては、ゲンドウの計画通りに進んでいたはずだった。

 

大人になったシンジ

破で綾波レイを救うため、全てを投げ売ったシンジ。

しかし、Qでレイは消えており、状況の好転を狙った「リリスから2本の槍を抜く」

という行為で世界を破滅の危機に陥れてしまう。

 

シン・エヴァ冒頭で、シンジはことばを失い、希望もなく屍のように生きている。

シンジは当初、第三村で出された食事を摂ることを拒絶する。

このまま、食べずに死ねるならそうしたいということだろう。

しかし、アスカによって無理やり口にねじ込まれたレーションを飲み下す。

 

「全部僕のせいなんだ。もう何もしたくない。」自分の殻に閉じ籠もるシンジに対し、アスカはこう言い放つ。

「自分のこと、可愛そうだと思ってるんでしょ。」

他人のことを考えているようで、そこにあるのは自分。

自分、自分、自分のことばかりだ。

アスカによる乱暴な食事の強要は、シンジに否応なく他者の存在を突きつけた。

 

いつだって、他人に言われたから仕方なく従ってきたようなフリをしてきたシンジ。

しかし、従うことを決めたのは自分だ。

もう人を傷つけたくない。そう言いながら、人を傷つけてしまったことで自分の心が痛むから他者と距離を置こうとしてきたに過ぎない。

 

誰もが、欠落感を抱えて生きている。

理解し合った気になっても、それはただの勘違いにすぎず、人は近づいたと思えば離れていく。

そんな不安から全人類を救う方法、それが「地球上のあらゆる生物が混ざり合い、単一の生命体になること」=人類補完計画だった。

 

しかし旧劇でもシン・エヴァでも、シンジは最後に「他人がいる世界」を選ぶ。

 

自分を救うために必要なのは、良いことも悪いことも、正義も悪も、正解も過ちも、愛も憎しみも・・・この世のありとあらゆる感情を「そこにある」と認めることだ。

他人と接することで生まれるすれ違いや軋轢は、決して消えることはない。

悪意も好意も表裏一体で、どちらかだけが存在する世界などあり得ないのだ。

 

Qまでのシンジは、ゲンドウから譲り受けたS-DATで耳を塞ぎ、他人を遮断してきた。

S-DATは形を変えたATフィールドだったのだ。

 

しかし、アヤナミレイ(仮称)を失った時----耐え難い喪失を経験した時、シンジは世界を拒絶する(=S-DATで耳を塞ぐ)のではなく、痛みごと喪失を受け止めようとする。

 

SーDATで耳を塞ぐことをやめたシンジは、第三村で生活するうちにほかでもない「他人との触れ合い」によって救われていく。

それは、ゲンドウがついになし得なかった「他人と共生できる地平に立つ」=現実をありのまま受け入れ、大人になることだった。

 

ゲンドウが恐れていたもの

  ゲンドウが最後にたどり着いたゴルゴダオブジェクトは、人ならざるもの(=神)がマイナス宇宙に創り出したイマジナリーな世界を具現化する装置だ。

そこでは対象が見たいように見え、感じたいように感じられる。

救世主(ゲンドウ、あるいはシンジ)が望む世界が、新世紀に生み出されるはじまりまたは終着の場所だ。

 

エヴァンゲリオンに乗り込み、戦うゲンドウとシンジ。

しかし、エヴァンゲリオンという殻を纏った状態では、互いの心を理解することはできない。

「僕は、父さんと話がしたい」

シンジの呼びかけによってゲンドウはエヴァを降り、初めて自分の内面を息子にさらけ出す。

 

長い独白の終わりに、ゲンドウはシンジの中にユイの姿を見出す。

子供には、父親と母親の遺伝子が確実に受け継がれている。ユイはシンジの中で生き続けているのだ。

ユイを求めるあまり、人類補完計画遂行にすべてを捧げシンジを遠ざけてしまったことが、皮肉なことにゲンドウとユイの再会を阻んだ最大の原因だった。

 

永遠に続くと信じていた、ユイとの調和のとれた完璧な生活に現れた不確定分子=シンジ。

しかし、シンジの中にユイの存在を認めたとき、ゲンドウは悟ったのだ。

自分を不変の愛で永遠に包んでくれると信じていたユイも、変化していく存在だということに。

子供はきっかけに過ぎず、生きている限り人は常に変化し続ける。ユイもまた例外ではない。

元々「完璧なユイ」はゲンドウのイマジナリーな世界にしか存在しないのだ。

それこそが、ゲンドウが真に恐れていたことだった。

 

※冬月が最後に遺したことばーーー「碇、ユイくんには会えたのか?」

冬月はわかっていたのだろう。

再びユイと再会した時、そこに現れるユイは「かつての彼女=自分たちの記憶の中にいる姿」とは違うであろうことを。

 自分の研究室の教え子であったユイに対し、教え子以上の感情を抱いていた冬月。

彼もユイへの思いを断ち切れずに人類補完計画に協力する道を選んだ。

しかし冬月は、計画の破綻をどこかで予測していたように思う。

そして、破綻を見届けてはじめて、ユイへの思慕を断ち切れると思い定めていたのではないだろうか。

 

さらば、すべてのエヴァンンゲリオン

ゲンドウの人類補完計画の真の目的は、彼の記憶の中にいる「理想の女性=ユイ」を復活させ、彼女を完璧な姿のまま未来永劫自分のものにすることにあった。

しかし、初号機に取り込まれることを自ら選んだユイは、夫の望みを知りつつそれに応えることはなかった。

すでに彼女は母であり、シンジを守り育てることをゲンドウを愛することと同じ(もしくはそれ以上に)大切に思っていたからだ。

 

ユイがゲンドウを受け入れたのは、崩壊するイマジナリーな世界=自分しかいない閉じた世界からシンジを広く開けた他人がいる世界へと送り出した時だった。

この時、はじめてゲンドウは本当の意味で父になることができ、ユイはそれを祝福したのではないだろうか。

 

「父さんは、母さんを見送りたかったんだね」

ついにゲンドウはユイの死を受け入れ、「自分のしたことに落とし前をつけて」すべてのエヴァンゲリオンとともにイマジナリーの世界へ消えていった。

自分とユイが残した方舟ー互いのDNAを半分ずつ乗せた遺伝子の船であるシンジに未来を託して。

 

シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>⑤碇ゲンドウについて・前編

ゲンドウの孤独

 Qを見た当時、強い違和感を覚えた。

ミサトさんがやたらとシンジに冷たいとか、リツコさんがバッサリ髪を切っているとか、そんなことよりも

なぜ廃墟となったネルフ跡地にグランドピアノがあるのか。

いつ運び込まれたのか?シンジとカヲルが連弾するために用意されたのか?(そんなバカな)

 

謎はシン・エヴァでついに明かされた。

元々あのピアノを弾いていたのは、ゲンドウだったのだ。

 

シン・エヴァでゲンドウが自分の過去を振り返る下りで、自分の好きなものを2つ挙げている。

ひとつは「知識を得ること」、もうひとつが「ピアノを弾くこと」だ。

恐らくゲンドウが司令官としてネルフに着任した際、地下にピアノを持ち込んだのではないか。

そしてニアサード・インパクトでネルフ本部の特殊装甲がすべて吹き飛んだ時に初めて、ピアノはゲンドウ以外の人の目に触れたのだろう。

 分厚く鎧われたターミナルドグマ深くに置かれたピアノ。

それは、ゲンドウの心の暗喩だ。

 

※視聴者はシンジの目線で物語を見るよう誘導されている。

ゲンドウが何を思い、なぜ人類補完計画を進めようとするのか。

エヴァの構造は、ゲンドウという人間を理解することを意図的に困難にしているのだ。

 

ピアノとチェロ

ピアノは必ず弾いた通りに応えてくれる。だから好きなのだとゲンドウは言う。

常に変わらないもの。明確で曖昧さがないもの。それこそが彼の思う真実だからだ。

 

ピアノは、鍵盤を叩くことで音楽を奏でる。

一つの鍵盤を叩けば、必ずそれに対応した一つの音が鳴る。

誰が弾いても、ドの音は常にドだ。

 

ゲンドウの選んだ楽器がピアノであるのに対し、シンジが習っていたのは弦楽器であるチェロだ。

弦楽器は弦の上に指を滑らせ、弓で弦をこすることで音を奏でる。

弦には音の目印はついておらず、演奏者が耳と指先の感覚で音を作っていく。

弦の上には無数の曖昧な音があり、そこから演奏者が選び取っていくことで音は初めて姿を表すのだ。

 

ゲンドウとシンジ。親子である2人の選んだ楽器は、彼らの世界に対する姿勢を表していて興味深い。

 

※音を奏でることは、古来ギリシアでは神との交歓、宇宙の真理を解き明かす方法のひとつだった。

太陽神アポロンは芸術の神でもあり、アポロンの息子であったオルフェウスは、竪琴の音色で人だけでなく動植物や神でさえ従えたという。

新世紀を創ろうとする碇親子が楽器の演奏をすることは、これと無関係ではないだろう。

 

 

 ゲンドウとカオル

「計画通りだ。」

そう繰り返すゲンドウにとって、この世のすべては用意されたレールの上を粛々と進んでいかなくてはならない。

たとえ予定外のことが起きたとしても、誤ったシナリオはあるべき姿にすぐに書き換えてしまえば良いのだ。

(事実、ゲンドウにとってはニア・サード・インパクト後のネルフ解体・部下の離反でさえ、計画遂行に決定的なダメージを与えるには至らなかった)

 

「お前の生き様を見せても、息子のためにはならんとするか。私はそうは思わないがな」

長年ゲンドウの傍らにあった冬月のことばは「息子にありのままの己の姿を見せるべき」という指摘だ。

父を反面教師にするか、そうでないかはすべてを知った上でシンジが決めるべきことだからだ。

 

しかし、ゲンドウのシンジに対する姿勢は一貫している。

子供に説明する必要はない、親の言う通りにしていれば良い。人類補完計画が成った暁にはシンジも母に会えるのだから。

最愛の妻、ユイを復活させる。それはゲンドウにとって、自分だけでなく息子シンジのためでもあるのだ。

 

シン・エヴァで、シンジは「カヲルとゲンドウは似ている」と話す。

Qで渚カヲルとシンジが交流するシーンを振り返ってみると

カヲル「碇くん、話そうよ」カヲル、シンジを呼び寄せピアノの前に座らせる。

シンジ「あの、話をするんじゃないの?」

カヲル「ピアノの連弾も音階の会話さ。やってみなよ、簡単さ。君はこっちで鍵盤を叩くだけで良いんだ。さ、弾いてみなよ」

 

カヲルは会話を求めるシンジを遮って、ピアノを弾くよう促している。

どんなことばが出てくるか予測のつかない会話ではなく、決まった鍵盤を叩けば必ずそれに対応した音が出るピアノを選んだのだ。

カヲルも、シンジのためを思って行動しているように見えて、実は選択権をシンジに与えていないのだ。

 

一見優しそうに見えるカオルは、シンジがカオルの思惑に従っていることを是とする=彼を「(カオルの思う)正しい方向へ導く、極めて父性的な存在」である。

シンジの考えを尊重し、シンジがどんな決断を下そうとも、守り包み込む母性とは正反対の思考なのだ。

 

★長くなったので、一旦ここで切ります(^^;)