夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

NHKドラマ「犬神家の一族」感想 <ネタバレあり>

2023年4月22日、4月29日に前後編に分けて放送されたNHKドラマ、犬神家の一族

すでに11回も映像化されている横溝正史の名作推理小説を、どう料理するのか?

とても楽しみに視聴。期待を超える素晴らしい作品でした!

 

家族で見た感想を。

夫:市川崑監督の映画版を見て、あらすじは知っている。

私(妻):高校生の頃に原作小説を読んだことがあり、流れは理解。

長女(高1)長男(中2):ふたりとも原作小説を読んだことがなく、犬神家も初見。

 

<令和のJKから見た犬神家>

娘「珠世さんって結局、何者なの?」

全編を見終わって、まず娘が言った言葉がこれ。

その感覚はある意味正しい。

遺産相続の関係者の中で、珠世だけが「犬神家と血縁関係になく、犬神佐兵衛にとって大恩人である、野々宮大弐の孫娘」という立場を長く取っているから。

ラストに珠世の出生の秘密が明らかになるものの、佐清と静馬の入れ替わりトリックや、松子の犯行を金田一が暴く見せ場に隠れて「で、結局珠世って何だっけ?」となりやすい。

 

何より、珠世の正体をすんなりと飲み込めない一番の障害が佐兵衛大弐が衆道の関係にあった」というくだり。

私「衆道の意味はわかった?」

娘「わかったよ!男同士で恋愛することでしょ。大奥※1で見たもん」

※1:NHKで2023年1月に放送されたドラマ10大奥のこと

 

そう、令和のJKには大弐と関係を持ちながら、佐兵衛大弐の妻:春世との間に子を持つ」という異常な三角関係が理解できないようなのです。

明治~昭和初期の世相が「犬神家の一族」には大きく影を落としているけれど、その前提が現代っ子には伝わりづらい。

当時、身寄りも職もない人間が生きていくためには「今、ここに確実に存在する換金できるもの=体を売る」しかないのは、男も女も同じ。

この、自身の性的指向に関係なく、生きるために大弐と衆道の関係になる必然性が腑に落ちないと、佐兵衛が春世、そして珠世に終生こだわった理由が見えづらい。

 

困窮した立場から一転、製糸王として莫大な富を築いた佐兵衛は、自宅に3人の妾を囲うようになります。

これは、生きるために望まない衆道のちぎりを結んだ自分の黒歴史を払拭する――男としての沽券を回復するために思えてならないのです。

自分の男性性を確認するための妾なのだから、愛情を抱かないのは当然のこと。

その妾が産んだ子も、跡継ぎになり得ない「女」ならば、いないも同然だったのでしょう。

 

佐兵衛にとって唯一愛したのは春世であり、大切だったのは自分のとの間に男児を産んだ青沼菊乃(とその子、静馬)だけだった。

これが物語の発端であり、終局までを貫く「決して得られないものを求め続けた人々の物語」という今回の犬神家を象徴する出来事になります。

 

<松子、静馬の人物像>

今回のドラマで、従来の映像化とは大胆に異なる解釈が取られていたのが松子、静馬、佐清の3人の人物造形です。

まずは松子・静馬から。

松子は3姉妹が犬神家の相続に血眼になる理由が「財産だけではない」と言います。

決して自分たち娘を愛そうとしなかった父が遺したものを息子に相続させることで、自分の存在意義を明らかにしたい――父への復讐と、歪んだ形での父の愛情の獲得が目的だと。

 

ドラマ冒頭の佐清と松子が汽車に乗っている場面。

佐清(=静馬)は松子の手に触れようとしますが、松子はこれを拒絶します。

松子は、復員してきた男が息子ではないことを直感しています。

しかし、松子自身が相続人になれない以上、絶対に佐清には生きて帰ってきてもらわなくてはならない。

 

「あの男は、ただの化け物でしたよ」

松子のこの台詞が、非常に印象的でした。表面的には

「あの男は、佐清ではなく静馬だった」

佐清でない以上、ただの顔を焼かれて化け物じみた外見になってしまった赤の他人」という意味に取れます。

しかし、今回のドラマの静馬は『母:菊乃と自分を虐待した犬神3姉妹に復讐を目録む悪人』ではありませんでした。

一度も味わったことのない母の温もりを求める、寂しく悲しい人物として描かれています。

これこそが、松子にとって「化け物」という言葉につながったのでしょう。

父への遺恨と思慕をつのらせ、赤の他人を息子と偽ってでも遺産を相続させようとした自分。

そんな自分を慕い、愚かにも息子に成り代わろうとした静馬。

「(静馬を佐清として信じ込ませ)騙し通せると思っていたのですか?」

この台詞は、真相を告白した佐清だけに投げかけられたものではありません。

嘘を知りながら、目的のために目を瞑ろうとした松子と静馬にも等しく問われたのです。

 

どこの誰ともわからない男を、最愛の息子であるように仕立て上げ、疑いながらも手形が一致したときには「やはりこれは佐清なのだ」と喜び、静馬だとわかった途端、殺す。

「あの男は、ただの化け物でしたよ」

この言葉を発したときの松子は、自身の中にある暗い感情を覗き込み、本来かたきであるはずの犬神家を「温かい我が家」として憧憬した静馬の歪みを理解した――彼の抱える「愛情の欠落」が自分と同種のものであると気づいた瞬間のように思います。

 

<ラスボス:佐清

原作既読勢こそ、度肝を抜かれたラストだったのではないでしょうか。

母の自分への愛情を利用し、静馬を操り、遺産相続を有利に進める佐清

金田一佐清への疑いを聞いた後、ドラマでは静かに湖のほとりに佇む珠世の姿が映し出されます。

泰然とした珠世の表情を見ていると、珠世と佐清はある時点※2から結託して遺産相続の障害になる邪魔者を排除していったのではないかとさえ思えます。

※2:佐清・珠世共犯説をとるなら、奉納手形の一件あたりから珠世は佐清と示し合わせていたのでは?

 

しかし、よく考えてみると、佐清と珠世は出征前から相思相愛の仲であり、珠世と結婚した男子が相続権を得るのですから、佐清が殺人を犯す必要はないのです。

静馬を犬神家の一員として遇し、堂々と復員するだけでよかった。

 

金田一さん、あなた『病気』です」

ラストの佐清のセリフは、「金田一さん、考え過ぎですよ。妄想です」

ともとれる一方、陰惨な相続争い、殺人、人間の暗部をえぐり出す絡み合った因縁に関わり、「真相を知りたい」という欲求だけで人の心に踏み込んでくる金田一への強烈なカウンターパンチである※3ように思うのです。

 

そして、佐清「エンターテイメントとしてこのドラマを消費している視聴者も、金田一と同じ穴の狢なのですよ」と言っているように感じます。

だからこそ、今回のドラマ版では

「松子の死をもって真相が明らかになり、金田一が犬神家を去るところ」

で終わらず、あえて「その後の金田一佐清のやりとり」を描いたのだと思います。

 

※3:金田一は警察ではありませんから、佐清が仮に悪意をもって母と静馬を操っていたとしても、彼を裁くことはできません。

また、佐清が行ったことは犯人隠匿と死体損壊だけなので、決定的に佐清が殺人に加担したという新たな証拠でもない限り、佐清の罪を重くすることもできません。

金田一は個人的な「真相を知りたい」という欲求で動いているにすぎないのです。

 

<エピローグ:NHK版の何がすごいのか?>

最初に触れたように、「犬神家の一族」はすでに11回も映像化されています。

ヨキ・琴・菊の見立ても、静馬×佐清の入れ替わりトリックもすでに広く知られたものです。

そのまま原作をなぞるだけでは、何の驚きもなく過去の名作を超えられません。

 

金田一が何度も言っていたように、事件自体は単純です。

それを派手な仕掛けによって目眩まししているにすぎません。

犬神家の一族」の何がすごいのか?

それは人の思惑が意図せず影響しあうことで、事態が思わぬ方向へ転がっていく――その間に、単純な事件が複雑化してしまう過程を余すことなく描いている点です。

 

今回のNHK版は、ラストで金田一の推理自体に疑問を呈することで、事件をさもわかったかのように断罪する探偵というもの――あたかも「正解」がこの世に必ず存在するかのように振る舞う「正義側に立つ人間」に、「お前たちに、一体何がわかる?」と言っているように感じました。

善意と悪意は、表裏一体です。時と場所によって、または相手によって、いとも簡単に入れ替わるもの。

金田一も、我々視聴者も、それをホンの束の間のぞいているにすぎないのです。

げに恐ろしきは、人の心ということでしょう。

 

と、ここまで家族であーでもない、こーでもないと話し合って行き着いた感想です。

視聴後、思わず語り合いたくなる余韻を遺した終わり方は最高でした!

次は「本陣殺人事件」を見たいなぁ・・・。ぜひ、映像化して下さい!

 

 

 

 

 

 

 

シン・仮面ライダー感想(ネタバレ有り)

2023年3月18日、シン・仮面ライダーを劇場へ見に行ってきました!

ウルトラマンとは違い、仮面ライダーTVシリーズをまったく見たことがない完全初心者の私。

果たして楽しめるのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一言でいうと、シン・仮面ライダー庵野秀明監督の思う「仮面ライダーの格好いい要素詰合せ」映画です。

●ヒーロー図鑑などに書いてあるヒーローのスペック(パンチ力、キック力等)、サイクロン号などのガジェットを現代の映像技術で再現したらどうなるのか?という少年少女がワクワクする空想科学部分

●自分の意志に反して異形に改造され、恐るべき殺傷能力を手に入れた青年が悩み苦しみながら正義のために戦う内的葛藤

が2大要素になっており、そこに

●親子・兄弟の関係性

●一匹狼で戦うことの自由と孤独

●チームで協力する不自由さと信頼

が華を添えています。

 

TVシリーズを全く知らない私は、オーグメントプロジェクトのあらましも、その根源的力であるプラーナもそういうものとしてすんなり飲み込むことができました。

同様に仮面ライダーの戦う意味、敵対する組織の理念も特に疑問は感じませんでした。

 

ただ、両手を上げて称賛するには、いくつか気になる点があるのも事実。

思いつくまま例を上げてみます。

 

①台詞が聞き取りづらい場面がある

この映画では、仮面ライダーがマスクを被ったまま話すシーンがあります。

その時、マスクで口が覆われているため、台詞がよく聞こえないのです。

「え?今何て言ったの?」

最初は不親切だと思いましたが、監督が編集の時点でそれに気付かないとは思えない。とすると、これは意図的にそうしたのです。では、なぜ?何のために?

 

恐らく「仮面」を被っているのだから、声は聞き取りづらくて当たり前というリアリティの問題

そして本質的なのは「仮面」を被っている時の本郷猛は「人ならざるもの」なので、普通の人間である観客は「完全に彼を理解することはできない」ということ。

仮面は、改造人間になった本郷と観客を隔てる「壁」なのです。

観客には、完全に本郷を理解することはできない――だから、台詞が全部聞き取れなくても構わない。

前後の彼の行動から、彼が何をやろうとしているのか想像できれば良いという作り手の意志を感じます。

 

②ライダーの攻撃が基本、パンチとキックだけである

近年の派手な飛び道具を使ったアクションを見ている観客としては、いかにも地味に感じます。

いくら美しくひねりを加えたジャンプを決め、血しぶきを上げて人体を破壊しても、やっていることは「拳で殴る」「飛び蹴りをする」という近接攻撃のみです。

ただ、ライダーはその限られた攻撃手段で泥臭く敵を倒すところが魅力でもあります。

アクションに何を求めるかで、評価が大きく変わるポイントだと思います。

 

③あえてチープに作っている(だろう)シーンが成功しているかどうか微妙(?)

長澤まさみを大胆に無駄遣いしたサソリオーグ掃討のシーンや、仮面ライダー1号VS2号の戦闘シーンはアニメチックで、その演出が映画を盛り上げることにつなかっているかどうか意見が分かれるところです。

リアルに人の頭を潰す序盤の戦闘シーンに比べ、ライダー同士の決闘がストップモーションアニメをつなげたもののように見えるため、ギャップに戸惑います。

ハリウッドのアメコミ原作アクション映画のように、全編を通じてリアルな描写にすることもできたでしょうが、なぜそうしなかったのか?

すべてリアル志向で作ってしまうと、力のインフレが起こり、似たような絵面が続いてしまうことを忌避したのではないかと思います。

あえて挿入された映画のアクションのリズムを変える演出を「こういうのも面白いね」と楽しめるかどうかが評価を分ける気がします。

 

エヴァンゲリオンを彷彿とさせるシーンが多い

コウモリオーグとの戦いで、無数の緑川ルリ子が登場したときには、量産型綾波レイを想像した方も多かったのではないでしょうか。

ラスボス森山未來が座る玉座生命の樹を彷彿とさせますし、ショッカー本部の内装はゼーレを思わせます。

ルリ子と緑川博士の親子の確執、本郷の父への屈折した感情、肉体から離れた、魂だけの救済の場・・・テーマになっている設定もエヴァに通じます。

しかし、実は因果関係が逆なのです。

特撮物の基地やアジトがネルフ(orゼーレ)の原点であり、いくらでも替えがきくショッカー下級構成員仮面ライダーになれなかった」試作品や失敗作=怪人であること等々が、庵野監督の幼少期に多大な影響を与え、後年のエヴァンゲリオンにつながっているのでしょう。

すべての創作は模倣から始まる、ということだと思います。

 

⑤これが一番気になった点!!ショッカーは滅んでいない!

この映画の冒頭、私が想像したラストシーンは仮面ライダーによるショッカー壊滅でした。

しかし、実際は本郷とルリ子は死に(=厳密にはプラーナだけの存在になり)、ショッカーとの戦いは一文字隼人に引き継がれます。

「えっ、ルリ子と本郷は結局、イチローを止めるためだけに死んだの?肝心のショッカーはまだ存在していて、人類の危機は去ってないじゃん?!」

それが見終わった後に一番引っかかった点です。

 

しかし、物語を振り返ってみると、本郷猛の「優しさ=弱さ」・・・できることなら敵でさえ傷つけたくない。しかし、傷つけずに解決するすべはまだ見つからないというジレンマは、彼の代では克服できない壁なのです。

本郷猛がコミュ症で内省的なのに対し、一文字隼人は明朗快活――キャラクターのカラーの違いが、明確に「1号が成し得なかったことを、別のアプローチで次の世代が解決を試みる」という望みを託す物話であることを示唆しています。

 

仮面ライダーは、1号→2号と代替わりするたびに歴然とした性能差があります。

前世代の能力を引き継いだ上で、より高みを目指す――そしていつか「今」は克服できない問題を解決する――それが「仮面ライダー」の物語の構造なのでしょう。

 

<良かった点>

・ショッカーが悪の秘密結社ではなく、「人類を幸福に導くため作られたAIの暴走」により作り出された組織になっていること

・プラーナシステムの導入により、仮面ライダーになぜ変身するのかの理由付けをしっかり行ったこと

仮面ライダーの殺傷能力を「画」としてしっかり見せることで、綺麗事だけではない「力を手に入れた者の責任と覚悟、苦悩」を描いたこと

・ライダーの仮面、バイク、ベルトに一連の物語的必然性を与えたこと

・政府の男、情報機関の男、サソリオーグにシン・ウルトラマンを見ている人はニヤリとする配役を行ったこと

浜辺美波がかわいい

森山未來の身体コントロールの鮮やかさを堪能できる。本当に蝶のように美しく舞う様子には目を奪われる。

・見終わった後に希望が残る。

 

<結論>

仮面ライダー初心者でも楽しめます!ただ、楽しいと感じるポイントが観客によってまったく異なる可能性があります。

10人集まって感想を話し合ったら、10通りの捉え方があって驚くタイプの映画です。

シン・ウルトラマン感想<ネタバレあり>

シン・ウルトラマンを家族(夫、娘:中3、息子:中1)と鑑賞しました。

私と夫は初代ウルトラマン現役世代ではなく、各エピソードはほとんど覚えていない状態。

子どもたちは、つい最近までBSで再放送されていたウルトラセブンをちょこっと見たことがある程度。

そんな初代にまったく思い入れがない人間が見たシン・ウルトラマンとは?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

見終わった直後の感想は「面白かった!でも何回も見るほどではないかな。」

上映開始5分で世界観を説明し、禍威獣とウルトラマンの戦いになだれ込んでいくスピーディーな展開。外星人の個性的な言動、右往左往する政府の役人・・・どれも過不足なく盛り込まれていて、CMを見て期待していた通りの「ウルトラマン」だった。

チケット代分は十分楽しめた!そんな満足感。

 

しかし、帰宅して米津玄師の「M八七」をリピート再生しているうちに、何度も映画の内容を反芻し、じわじわと面白さが拡大していった。

それは一体なぜなのか?

 

シン・ゴジラとの比較>

シン・ウルトラマンシン・ゴジラと異なる点は、ヒトを超えた種族が作品世界に存在すること」だ。

ウルトラマン出現以前、自衛隊と禍特対は禍威獣4体を自力で倒している。

敵の弱点を見つけ、効果的な作戦を立案し結果を出しているのだ。

(おそらくシン・ゴジラで我々が目撃したヤシオリ作戦のような戦いが繰り広げられていたに違いない。)

しかし、ここでヒト以外の知的生命体が登場する。

ヒトに好意的で、進んだ科学と優れた身体能力を持ち、地球を守ってくれる神のような存在:ウルトラマンの飛来。

それは、ヒトがヒトの力だけで禍威獣と対峙することを放棄するきっかけになった。

シン・ゴジラがあくまでもヒトの持てる力だけで怪獣と戦ったのに対し、シン・ウルトラマンでは「外星人に地球の未来を託す」ことになるのだ。

 

シン・ゴジラのサブタイトルは「虚構対現実」

虚構であるゴジラに立ち向かったのは、あくまでも現実の人間だ。

戦車、戦闘機、電車、コンクリートポンプ車。ゴジラの活動を停止させるために働いたのは、どれも我々の住む世界に実在するモノであり、それを動かしたのは名もなき自衛隊員や鉄道会社職員、建設作業員たちだ。

未曾有の危機から日本を救ったのは、誠実に「普段の仕事を、いつも通りに粛々と遂行する」プロフェッショナルたちだった。

困難に立ち向かう「普通の人々」の姿が感動をもたらし、カタルシスを生んだのだ。

※それはあたかもNHKの「プロジェクトX」や「プロフェッショナル」を見終わった時のような感動だっただろう。

 

しかし、ウルトラマンでは「人間よりあらゆる面で圧倒的に優れた外星人」が作品世界に存在することで、同じ構造を取ることができないのだ。

 

<そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン

ウルトラマンの超人的な力に頼り、形ばかりの後方支援に回る日本政府。

彼が戦う様子をスマートフォンで撮影し、ネットにアップする野次馬たち。

物語中盤、独り体を張って戦うウルトラマンと、集団に紛れて個々の責任を放棄する人間たちが描かれる。

しかし皮肉なことに、この人類の「堕落」は、ある意味ウルトラマンがもたらしたものなのだ。

ヒトを超える力を持ち、しかもヒトに対して友好的で自己犠牲も厭わないような慈愛に満ちた存在ーーーウルトラマンがヒトを甘やかすことで、ヒトはウルトラマン、頑張って!」と彼を応援する傍観者の立場へ退いてしまうのだ。

 

驚くことに、この「ウルトラマンさえいれば、地球人はもう何もしなくて良いのではないか?」という問いは初代ウルトラマンの時点で提起されている。(第37話)

超人が存在することの構造的な問題は、避けがたいのだ。

 

ヒトはこのまま情けない「庇護されるべきもの」で終わるのかーーー

中盤以降、外星人たちの優れた科学力を見せつけられ、自信を喪失する非粒子物理学者、滝の姿が無力なヒトの代表として描写されるが、後半滝は一転して戦いの舞台へ帰ってくる。

滝を奮い立たせたのは、ウルトラマンから人類へ向けられた信頼と友情だった。

 

ウルトラマンは禍威獣を撃退する物語ではない>

結論から言うと、ウルトラマンが人類にもたらした福音は「禍威獣から地球を守る」ではなく、「人類は宇宙に存在する価値がある」という全肯定だ。

 

シン・ゴジラ「人間の血と汗と努力によって、自ら存在意義を勝ち取っていく物語」であるならば、シン・ウルトラマンは「神に近い存在が、地球ごと包み込むような無償の愛で『君たちはここにいて良いんだ』と人類を祝福してくれる物語」なのだ。

 

光の星の掟を破ったウルトラマンを母星に連れ帰るため、M87からやってきたゾーフィは自らを「裁定者」だと名乗る。

人類に対して、生殺与奪権を握る絶対的な存在だと言ってのけるゾーフィは、シン・ウルトラマン世界にやってくる外星人の思考を代表する存在だ。

地球人レベルの知的生命体は全宇宙に無数に存在し、そのひとつが滅んだところで何の影響もない。

自分たちにとって無害で、利用価値がある間は生かしておく。それが彼らの基本スタンスだ。

その中で、ウルトラマンだけが異なる価値観を持っている。

 

群れを作らなければ生きられない、互いに補完し合わなければ社会が破綻するヒトという生き物。

しかもヒトは、外星人に比べ寿命が短い。個としての能力や知識の蓄積が浅いまま次の世代に道を譲るしかない。

ウルトラマンの寿命は20万歳くらいらしい。日本人の平均寿命が約80歳なので、2,500倍長生きということになる。

人間から見て1/2500の寿命の生き物はワムシ(動物性プランクトンの一種)だ。

 

単体で完結しているウルトラマンは、長い寿命の中で知恵と経験を蓄積し、さらに生き物としての完成度を高めていく。

しかし、彼らに比べて一瞬の時間しか生きられない人類は、未熟ではあるがその世代交代の速さゆえに「新しいものを生み出す柔軟性」で優れている。

ウルトラマンにとって人類は花のようなものだ。

芽吹き、成長し、美しく花を咲かせ、醜く枯れ落ちる。しかし、枯れた根本には、次の世代を担う種が蒔かれているーーーー。

偶然落下した星で、初めて目にする花と出会い、ふと足を止め「なんて美しい花だろう」と思った瞬間、彼は地球を守ろうと決めたのだろう。

 

ヒトも、乾いて枯れそうな花を見れば心を痛め、水をやり、支柱を立てる。

それは自分より弱く儚いものへの愛憐と、慈しみの心だ。

しかし、花を美しいと感じる心に理由はない

「ただ、ずっとこの先も咲き続けてほしい」と願うとき、この世には(宇宙には)知的生命体の智を超えた真理があまねく支配していると気づくのだ。

 

ウルトラマンの物語が人の心をうつのは、地球の中だけに収まっている狭い視野が、強制的に宇宙規模へ拡張されるからだ。

地球上で最も知的に発達した生物だと自負している人類も、宇宙規模で考えれば赤子のようなものかもしれない。

突然、宇宙から進んだ科学力を持つ外星人が攻めてきて、為す術もなく蹂躙されるかもしれない。

その視点は、「環境を守りましょう。地球を大切にしましょう。」と日頃、当然のように使っているフレーズが、人類の思い上がりであることに気づかせてくれる。

 

そして、ウルトラマンは決して神ではなく、失敗もすれば能力に限界もある。

それが「ヒトもまた、庇護されるだけのか弱い生き物であってはいけない」ことを教えてくれる。

 人類だけで禍威獣や外星人を退けることはできないが、ウルトラマンを支え、共に戦う知恵を持っていること。

 絶望的状況でも、ウルトラマンの信頼を勝ち取った誠実さと懸命さを失わないこと。

人類も捨てたものではないーーーーシン・ゴジラのように「積極的な自己肯定」ではなく、「できることに、可能な限り全力で取り組む。そしてその限界は、決して突破できないものではない。ヒトがひとりではなく、繋がり合って協力し合うならば。」

そんな身の丈にあった肯定感を味わうことができるのが、シン・ウルトラマンだと思うのだ。

 

※米津玄師の「M八七」は、シン・ウルトラマンの「命」とも言える部分を見事にすくい取っている優れた曲だ。

エンドロールに流れるこの曲を聞き終わるまでが、「映画の鑑賞体験」だと思う。

 

 

犬王感想<ネタバレあり> 

アニメーション制作:サイエンスSARU

脚本:野木亜紀子

キャラクター原案:松本大洋

と、制作陣にビッグネームが揃った劇場アニメーション「犬王」

2022年6月5日に見に行ってきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鑑賞後の正直な感想は

「合う、合わないがハッキリ出る映画。手放しでオススメし辛い。」

映画口コミサイトをチラリと覗いたところ、やはり賛否両論。

 

まずは私が感じた「否」の部分を。

(ちなみに後半書く「賛」こそがこの映画の核部分だと思っています)

 

<室町✕ロックコンサート>

平家が壇ノ浦で滅び、さらに鎌倉幕府も滅んだ後の室町時代が舞台。

南北朝に分かれ、不安定な政治状況下で戦が絶えなかったこの時代、民は疲弊し都は荒れ果てていた。

 

そんな荒んだ時代に現れた2人のロックスターが主人公。

猿楽一家に生まれるも、不気味な容姿ゆえ謡うことも舞うことも許されず、周囲に疎まれて育った犬王。

海に沈んだ平家の呪いにより、父を亡くし自身は盲になってしまった琵琶法師、友魚。

2人は出会った途端に意気投合し、互いの才能が化学反応を起こして、エンターテイナーとして京の町を席巻していく。

 

前半は友魚が琵琶法師になるまでの経緯と、犬王の置かれた境遇の説明→2人が出会い、新しいエンターテイメントを作り上げるまでのサクセスストーリーだ。

2人に共通するのは、その身に「呪い」を受けていること。

光を失った友魚の目が見えるようになることはないが、犬王は芸を極めることで、自身の異形の体が人としてのあるべき姿に戻っていく。

 

忘れ去られようとしている平家の物語を、拾い集めて広く世間に伝え聞かせるーーー声にならない敗者の声を聞き、代弁することで彼らの生を(死を)人の心に刻む。それが成仏できず彷徨っている怨霊たちを鎮めていくことに繋がる。

そしてその対価として、犬王は呪いから解放され、友魚は自分が生きている実感を得るのだ。

 

アニメーションはとても丁寧で、美しい。特に、夢と現を行き来する表現は卓越している。

しかしその半面、コンサートシーンはやや単調。

同じように、ロックコンサートがストーリーの重要な部分を占める英国のバンドQUEENを題材とした映画「ボヘミアン・ラプソディ」と比べると、

・観客にとって初めて聞く馴染みない曲なので、ノリづらい。

・単純に、世界的な大ヒット曲目白押しの「ボヘミアン~」に比べて楽曲の持つ力が弱い

・キャラクターが同じ動作を繰り返す作画が多く、曲も同じメロディをリピートするので飽きてしまう  のだ。

 

ロック界のレジェンドであるQUEENと比べるのは酷だが、映画の構造が「ボヘミアン~」を彷彿とさせるので、どうしても見ている間、頭にチラついてしまう。

 

そして、QUEENの楽曲と衣装、ライブパフォーマンスは令和の時代に見ても(聞いても)他に並ぶもののない、オリジナリティに満ちている。

しかし、犬王は我々にとって「テンプレート化されたロックスター」なのだ。

橋の上でパフォーマンスする友魚の出で立ちは、室町時代では新鮮だったとしても、我々には既知のものだし、むしろ「ちょっと昔に流行ったやつだよね?」という感覚だ。

しかも犬王の曲は室町時代でありながら(一部琵琶の音を使っているにせよ)ほぼ全てが現代の楽器(エレキギターやベース)で奏でられている。

室町時代エレキギターがあるか!」といった時代考証的な不満ではなく、いっそ邦楽の笙や篳篥、琴、三味線あたりを使った方が現代人にとっては新しかったのではないか」と思うのだ。

つまり「何かすごいものを見ている」というスクリーン上に映し出された室町の聴衆の興奮と、客席の我々のテンションに乖離があるのだ。

このあたりは、「ボヘミアン~」がラストのライブ・エイドのシーンで、スクリーンと客席がシームレスになったかのような一体感を作り出したのとは対照的だ。

 

「賛」の部分(この映画の最も重要なこと)>

「犬王」のテーマは、大きく分けて2つ。

 ①呪いと運命(生と死)

 ②自分とは何者か

 だと思うが、それが猿楽を通じてドラマティックに表現されている。

友魚が琵琶法師になるきっかけは、将軍の使者に依頼され、海底に沈んだ三種の神器のうちのひとつ、草薙の剣を引き上げたことだった。

草薙の剣には平家の怨念が宿っており、剣を抜いた友魚の父は死に、側にいた友魚自身は目を傷つけられて失明してしまう。

 

しかし平家が本来呪うべき相手は、彼らを滅亡に追いやった源氏一門ではないか?

戦には何の関係もない、しかも源平合戦から60年も経った後、たまたま神器が沈んだ壇ノ浦に生まれ育ったためにその「引き上げ役」を頼まれた漁村の民=友魚とその父を祟るのはお門違いではないか?

 

犬王にしても、理想の芸を極めるため、悪魔と取引した父親が呪いの元凶だ。

父親は胎児だった犬王の体を悪魔に差し出す代わりに、究極の美の完成を願う。

己の欲望を成就するために何かを犠牲にする必要があるのなら、父親自身が声なり体の一部なりを失うべきなのではないか?

なぜ呪いは、理不尽に主人公たちに降りかかるのか。

それは、この世はすべからく理不尽なものだからだ。

 

犬王と友魚は、類まれなパフォーマンスで京の人々の人気を得る。

同時に、成仏できずに彷徨っていた平家の怨霊たちを救っていく。

平家の御霊が鎮められ、犬王と友魚は自分の生きる場所を見つける。めでたしめでたしーーーとはならないのが、この作品の注目すべきところだ。

 

海から引き上げられた草薙の剣が、収められた蔵の中でガタガタと揺れ、血を吹き出すシーンが描かれるが、草薙の剣にかけられた呪いはなぜ解けないのか?

それは、人が生きている限りこの世から呪いが消え果てることがないからだ。

 

でき得る限りの創意工夫ーーー情熱を注ぎ込んで新しいエンターテイメントを作り上げ、頂点を極めた途端、犬王と友魚のパフォーマンスはすべて否定され取り上げられてしまう。

権力者の一言で、いとも簡単にあっさりと。

「時代がやっと追いついた。」芸術に対して、よく使われる言葉だ。

生前は無名だったアーティストが、後世に評価されたとき使われる枕詞のようなもの。

しかし、これは芸術に限ったことではない。発明しにしろ研究にしろ、時代が変われば評価は変わるーーー持て囃されていたものが否定される(またはその逆)のは世界各国、津々浦々で見られることだ。

生まれる時代さえ違っていれば・・・しかし、人は自分の生をコントロールなどできないのだ。

この冷徹な事実を、この映画はしっかりと観客の目の前に突きつける。

 

友魚は自分が作り上げた謡を捨てることを拒否し、代わりに自らの命を捨てる。

犬王は友魚の命を救うために「自分」を捨て、ただの平凡な「猿楽師」になることを選ぶ。

自分を生かすために死ぬか、死にながら生きるか。

2人の選択は対象的に見えて、「そこで死を迎えたこと」は共通している。

 

権力者によって、ふたりは殺された。

皮肉なことに、平家を成仏させてきた友魚は新たな怨霊となって600年も彷徨うことになる。

この世を覆う、呪いの強さ、深さ。

精一杯努力して掴み取ったものが、砂のように指の間をこぼれ落ちていく虚しさ。

「過酷な運命」と言うと、自分の努力次第で覆すことができるのではないか、と人は希望を抱いてしまう。

この映画は、非情なまでに「抗えない運命がある」ことを教えてくれる。

だからあえて、この映画で描かれる理不尽運命とは呼ばない。そこにあるのは人智を超えたーーー人の営みをただ飲み込み、押し流す歴史という「呪い」なのだ。

 

※サイエンスSARUが制作に関わったアニメ「平家物語」がよりわかりやすい構造をとっている。見ている我々は平家が滅びることを最初から知っている。

そして劇中の登場人物である琵琶も、先を見通す目で平家の滅亡を知っている。

  結末がわかっている物語を、見る意味があるのか?

  死ぬことがわかっているのに、生きる価値はあるのか?

意味はある。その強い信念の下、「平家物語」は作られている。

 

この世に呪いが満ちているからといって、人は生きることを止めない。

犬王と友魚に、「あなたたちのパフォーマンスは将来将軍によって禁止されます。どんなに舞っても謡っても無駄です」と告げたとして、彼らは歩みを止めるだろうか?

たとえ、未来を予知する能力があったとしても、人は「その日がくるまで」生きるのだ。

今この時、確かに自分はここにいる。

死ぬまで生きろ。

それが、最も強いこの映画のメッセージなのだ。

 

ボヘミアン・ラプソディ」は、ライブ・エイドでのQUEEN復活を高らかに歌い上げて終わる。

エイズに冒されたフレディが亡くなる悲劇的な最期は、エンドロール前の字幕でさらりと触れられるだけだ。

光と闇が同居したスター、フレディの光の部分を観客によりアピールしたい。

そんな意図がはっきり見えるラストだった。

対して「犬王」は、犬王が「本来の自分を封印して、権力者の意向に沿う猿楽師として名を馳せた」ことを字幕で伝える。

天寿を全うした犬王。しかし彼は自分の謡と踊りを捨てた時にすでに死んでいる

だから後世に彼の作品は「いっさい既存していない」。

つまり、長い間「骸のまま生き続ける地獄」を味わったのだ。

 

だからこそ、600年後に再会した友魚は犬王を恨んでおらず、互いに無邪気に相手の名を呼ぶ。

互いにとって、相手は何者であったのか。

本来の自分を取り戻すラストシーンが、闇の中に灯るかすかな希望を感じさせた。

 

混迷する時代に「運命は自分の力で切り開く、努力は必ず報われる」・・・そんな物語を我々は信じられなくなっている。

 未来が闇に覆われていても、「今」を生きることはできる。

 今を生き抜いていれば、次の瞬間未来だったときは「今」になる。

人には所詮それしかできず、無数の人々が歩みを止めなかったことで歴史は作られてきた。

そんな「事実に気づくこと」が、結果として今の自分を肯定する勇気を与えてくれる。

一見、室町でロックという荒唐無稽な設定でありながら、世の中の理不尽から逃げないとてもリアルな映画だったと思う。

 

※犬王と友魚のパフォーマンスに熱狂していた名も無い京の町の人々も、戦や飢饉、疫病に苦しみながら死ぬまで生きたことだろう。

しかし、我々は彼らの物語を知らない。歴史に名を残すのは、権力者が書き留める価値を認めたほんの一握りの人間にすぎない。

すべての人々の物語を拾い集め、語り継ぐのは最初から不可能なのだ。

(=だから、この世から呪いが消え去ることはない)

「不可能」に無謀にも挑戦した2人の主人公。

しかしこの映画を見終わった後、観客は知っている。

彼らの生き様が無謀であっても無駄ではなかったことを。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※友魚が「友一→友有」と名前を変え、父に「名前が変わると探せなくなる」と言われるシーンは象徴的だ。

犬王は自ら「犬王」と名乗った。自分が何者であるのかを宣言するーーーそれがこの映画における名乗りの意味だろう。

そして「本当の自分」はひとつではないし、絶えず揺らぎ変化していくものであることも教えてくれる。

 

※犬王の父の望みは成就している。究極の美を手に入れるのは父自身ではなく、息子の犬王によって達成された。

「究極の美とは何か」という真理の探究ではなく、自分個人の栄達の道具として美を求めたために、父は命を落とすことになった。

「自分」の芸に拘泥せず、一門の芸の完成に視野を広げることができたなら、犬王の父は救われたのかもしれない。

人間をひとりひとりの人生単位ではなく、人類レベルの視点で俯瞰できればーーー歴史に名が残らない凡夫でも、人類の歩みに蝶の羽ばたき程度の影響は与えられるのかもしれない。

逆説的に、犬王の父はそれを教えてくれているように思う。

 

シン・エヴァンゲリオン1周年生特番<感想> 真希波・マリ・イラストリアスについて

シン・エヴァンゲリオン劇場公開1周年を記念して、

今まで書いていなかったマリについての感想を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新劇「破」から参戦した新キャラ、マリ。

彼女はそもそも、なぜエヴァンゲリオンの世界に「後から」やってきたのだろうか。

 

漫画版「新世紀エヴァンゲリオン」14巻掲載の「夏色のエデン」に、彼女とゲンドウ、ユイが大学在学中のエピソードが描かれている。

しかし、これが直接「破」の前日譚になっているとは思えない

 

「夏色のエデン」のマリは、「乳が大きくない」。昭和歌謡曲も歌わない。

ふざけた楽天家でもない。

キャラクター造形が新劇とかなり異なっているのだ。

 

ここで描かれたマリの設定で、新劇に引き継がれているのは

・ゲンドウ・ユイとともに京大の冬月研究室で学んでおり、エヴァンゲリオンの基礎研究に携わっていた。

・高い能力を評価されて、イギリスに留学した

ことだけだろう。

 

※「夏色のエデン」で、マリはユイに対して恋愛感情を抱いている設定だ。

しかし、この恋愛感情は十代の女子特有の「憧れを恋愛と勘違いする」心情だと思われる。

自分より優れた能力を持つ相手に対し、正面から対立し、戦いを挑むのはとても辛い。

それよりも、相手を「好き=自分にとっての“特別な人”」にして棚上げする方が、自意識は傷つかずに済む。

明らかな能力の差を自身に納得させるための、防衛本能のようなものだ。

 

そして、新劇の中でもマリは「時系列で考えると」一貫したキャクターではないのだ。

破の序盤、エヴァ仮設5号機での第3の使徒との戦闘時、マリは「操縦者、操作思考言語を固定願います」というネルフ職員の問いに「初めてなんで、日本語で」と答えている。

この時がマリのエヴァンゲリオン初搭乗なら、マリはいつ「エヴァの呪縛=搭乗時の年齢から外見が変化しない呪い」を受けたのだろうか?

ひとつの可能性として考えられるのは、ユイによるエヴァンゲリオンへのダイレクトエントリーが失敗したことを受けて、マリがエントリープラグ方式の搭乗方法を研究開発、イギリス留学中に自らを被験者とする実験で「呪縛」を受けたーーーだろう。

 

もしそうだとすると、気になるのは第3の使徒との戦闘終了時の加持の台詞だ。

「大人の都合に子供を巻き込むのは気が引けるな」→マリを外見年齢と同じ、子供だと思っている=加持はマリがゲンドウやユイと同窓だと知らないことになる。

ここまでは良いとして、次のマリの台詞が腑に落ちない。

エヴァとのシンクロって聞いてたのよりキツイじゃん。(中略)自分の目的に大人を巻き込むのは気後れするな」

エヴァとのシンクロ自体が初めてなら、イギリスでの実験中にエヴァの呪縛を受けたという仮定は成り立たなくなる。

「自分の目的に大人を巻き込む」=マリの自己認識は「子供」ということになり、実年齢がゲンドウやユイと変わらないという想像も難しい。

 

その一方で、シン・エヴァ終盤にマリと冬月が2番艦の中で交わした会話

マリ「お久しぶりです、冬月先生。」

や、冬月が持っていた幼いシンジを抱いたユイが写った過去の写真に、マリが一緒に写り込んでいたことから、マリの容姿が長い間変化していないことが匂わされている。

 

マリについては、破→Q→シンと新劇がインターバルを置いて制作されていく中で、最も設定が変化し続けたキャラクターなのではないだろうか。

恐らく、設定を突き詰めて考えると辻褄が合わない部分が多くなりすぎ、マリの詳細はあえて語られなかったし、物語としての彼女の存在意義は「矛盾を抱えていても何ら問題ない」のだろう。(理由については後述)

 

<物語の「外」からやってきた少女>

各所の庵野監督のインタビューを読むと、マリのキャラクター造形(外見、内面とも)は、鶴巻監督のアイディアが強く反映されている。

少女なのに胸が大きい、人との距離感が近い、陰りがなく根っからポジティブ。どれもこれまでのエヴァンゲリオンキャラクターでは見られなかったマリの特徴だ。

 

シン・エヴァンゲリオン劇場公開1周年生特番の中で、視聴者から投げかけられた質問ーーー庵野監督は、エヴァンゲリオンをどのくらい理解していますか?」に対しての答え「半分ちょっとでしょうか」が、偽らざる「事実」なのだろう。

※「事実」ではあるが、それが「真実」であるとまでは言い切れない。そのためあえて「事実」と記述する。

 

TV版エヴァから関わるスタッフ、TV版、旧劇を見て新たに加わったスタッフ・・・大勢の造り手が提示するアイディアの中から、面白いものを取り入れてブラッシュアップするうちに、初期設定と矛盾が生じる箇所もあっただろう。

庵野監督でさえすべてを把握しきれないほど、キャラクターや汎用人形決戦兵器としてのエヴァンゲリオン、作品世界に登場する組織(ネルフやヴィレ、クレーディト等)などの設定は膨れ上がっていったに違いない。

しかし、多少の矛盾より「作品全体として見たときにより面白くなること」を何より優先して作られたのがシン・エヴァだった。

それは、同じく1周年生特番の質問

Q:今回のエヴァンゲリオンを作っていくにあたって 過去のエヴァ作品とあえて同じにした もしくはあえて変えた様なものはありますか?

A:あえて変えたのは自分達の経験等を反映させた物語構造をやめて、フィクションとしての強度を持った物語構造にしたところです。

という解答でも明らかだ。

 

TV版、旧劇では物語が進むにつれ、当初意図したキャラクターの設定が崩壊し、ミサトもアスカもリツコも全員が「シンジ」になってしまった。

 ・ひたすら愛を乞うひと

 ・自分自身のことで精一杯で、他人のことまで思い遣れない、世界に「自分」しか存在しないひと。

 皮肉なことに、制作が予定通りに進まなかったことが旧劇までのエヴァを難解なものにし、王道の「少年の成長物語」から逸脱した結果、伝説的なアニメとなった。

 

対してシン・エヴァでは、加持、ミサト、リツコ、ゲンドウ、シンジ・・・旧劇までは責任を半ば放棄したような退場を余儀なくされたキャラクターたちが、見事に自分の役割を全うして去っていった。

フィクションの舞台で生きているキャラクターたちに、物語の中で花道を作るーーー言い換えれば、「もう二度と復活しなくて良いように引導を渡す作業を、シン・エヴァでは155分かけて行ったのだ。

 

新劇から新たに登場したマリだけは、これらの「過去のしがらみ」から完全に自由なキャラクターだ。

シンジに対しても、アスカに対しても、彼らの自発的な行動を待つだけで決して彼らを教え導くメンターの役割にはならない。

常にニュートラルな立ち位置で、TV版からのレギュラーキャラクターたちを補佐する。

 

マリは、TV版から続く作品に散りばめられた謎(=回収しきれなかった設定と自己矛盾)と、各キャラクターたちが「やり残したこと」、そこに絡みつく「考察」という名の視聴者の思惑を解きほぐし、作品としてのエヴァンゲリオンを解放するために「物語世界の外からやってきた存在」なのだ。

 

<確実なことーーーマリ≠安野モヨコ

1周年生特番の中で最も注目するべき質問と、その解答を引用する。

 

 Q:マリは奥さんの安野モヨコさんがモデルというのは本当?

 A:マリのモデルが妻だと解釈した文章や動画等を散見しますが、それは一部の人の解釈・憶測にすぎません。マリの人物像(アスカ他もですが)は鶴巻監督の手によるところが大きく、制作時の事実とは違います。

 キャラクターやストーリーの解釈は観客の自由な楽しみですし、本作にもファンのフリーな知的な遊び場としての余地を持たせています。

 しかし偏った憶測でスタッフや家族を貶められるのはあまりに哀しいことなので、この点についてはハッキリと否定しておきます

 

シン・エヴァに奥様である安野モヨコさんの影響があるとしたら、

 ・第3村のおばさまたちや、鈴原家の赤ん坊(ツバメ)等のデザイン

 ・シュガシュガルーンオチビサン

といったモヨコさん創作のキャラクターによる作品世界の広がりがひとつ。

そしてもうひとつーーー物語構造をフィクションとして強化するという意味では、こちらの方がはるかに重要だと思うのだがーーー

 ・きちんと食事をとること

 ・誰かのために、何かをしようと決意し、実行すること

といったキャラクターたちの「真っ当に生きる姿勢」が描かれたことだろう。

※モヨコさんの作品、働きマンオチビサンを読むと、現実世界で懸命に「地に足をつけて」生きていく物語が描かれている。

 

シン・エヴァの第3村で繰り返し描かれたのは、「誰かがいるから自分も存在していられる」のを実感させる、血が通った日常の風景だった。

それらの「誰かの存在によって生かされている視点」は、監督が伴侶を得たことと無関係ではないだろう。

つまり、マリというキャラクターがシン・エヴァ『シンジを物語世界の外へ連れ出す重要な役割』を担うに至ったひとつのきっかけが他人と一緒に暮らすことーーー奥様の存在だったのではないだろうか。

 

シン・エヴァは、大人になったシンジがマリの手を取り、アニメの駅ホームから実写となった駅構外へ駆け出して行くシーンで終わる。

 Q:マリとシンジは何処に向かって行ったんでしょうか?

 A:先日残念ながら閉店した「喫茶らいぶ」です。

1周年生特番の解答は示唆的だ。

2人は「終劇」の後、シン・エヴァ公開当時は実在した喫茶店へ向かい、おそらくそこで一緒に飲食し、会話するのだろう。 

 

自分以外の存在をそばに感じながら、食事をする。

それが実写で描かれていること。

フィクションの世界で自分の内面に閉じこもっていたシンジが、光差す外へ飛び出していくラストは、この映画を見終わった後、席を立ち家路につく観客たちへの何よりの強いメッセージだった。

 

26年間、エヴァンゲリオンというフィクションの世界を背負う主人公だったシンジを、作品世界から解放するのは、新しい外の世界からやってきたマリにしかできない芸当だったのだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝を見た感想

<注意>

2021年11月5日の金曜ロードショーヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝を見た感想です。

「泣いた」というファンの方には不快な記述があるかもしれません。

それでも良い方のみ、先にお進み下さい。

 

外伝では、ヴァイオレットは良家の子女のみが通う規律の厳しい女学校へ家庭教師として派遣される。

由緒正しき名家の娘、イザベラの教育係となるヴァイオレット。

実は、イザベラはかつてエイミーという名で浮浪児のような生活をしており、跡取りが必要になったヨーク家による捜索で発見され、現在の「名家の娘」のポジションを得た人物だった。

 

序盤で語られるこの設定が早くもつらい。

市井で何の教育も受けずにその日暮らしをしていたエイミーを引き取ったヨーク家は、すぐにでも一般常識のみならず、家名にふさわしい礼儀作法の教育を始めるのが普通だろう。

幼少期を捨て子として過ごし、戦時中は人殺しに明け暮れ、ろくな教育を受けずに育ったヴァイオレットに教育係の白羽の矢が立つのは、あまりにも不自然。

 

こうした不自然な設定をあげつらっていくと、それだけで感想が終わってしまうので細かいことには目をつぶって、肝心の中身について見てみよう。

 

外伝のあらすじはこうだ。

①ヴァイオレット、名門ヨーク家の娘イザベラの教育係として女学校に3ヶ月派遣される。

②その間にイザベラとヴァイオレットは友達になる。

③イザベラはかつて、エイミーという名前で戦後の荒廃した町で浮浪児のような生活を送っており、同じ境遇の年下の少女テイラーと身を寄せ合ってふたりで暮らしていた。

④跡継ぎが必要になった名門貴族ヨーク家がエイミーを見つけ出し、連れ帰ってしまう。エイミー(=イザベラ)とテイラーは離れ離れに。

⑤テイラーはヨーク家のはからいで孤児院に入れられ、無気力に過ごしていた。そこにエイミーから手紙が届いたことで、テイラーはエイミーと再会するという希望を抱く。

⑥自分に生きる希望を取り戻させてくれた「手紙」はテイラーの中で特別な存在になり、テイラーは人々に幸せを運ぶ郵便配達人になりたいと思うのだった。

 

①バイオレットが女子校でイザベラといちゃいちゃする百合展開。

・バイオレットがひとつのベッドでイザベラと寝る

・ふたりで一緒に風呂に入る

・ヴァイオレットが男装をして、イザベラとダンスの練習をする

等のシーンがあり、恐らくそれを描きたいがため「ヴァイオレットが貴族の子女の教育係になる」という設定になったのだろう。シュチュエーション萌のための装置

 

②特にこれといった劇的なことは起こらないまま、いきなりヴァイオレットとイザベラは友達になる。

「あれ?重要なシーンを見逃したのかな?」と目をこするも、そんな描写はない。

 

③浮浪児として過ごしていたかつてのエイミー(=イザベラ)が、捨て子だったテイラーを拾う場面。

重要なのでエイミーの台詞を引用する。

「決めた。(この子を)僕の妹にする。復讐だから。こんな生き方しかさせてくれない(社会に対しての)。本当はこの子も(僕と同じように)不幸になるはずなんだ。でも僕が幸せにする。新しい選択肢を、何もない僕がこの子に与える。」

ヴァイオレット・エヴァーガーデンの登場人物すべてに共通する問題点がこの台詞に凝縮されている。

それは「あたかも相手のことを思って行動しているように見せかけて、その実自分のことしか考えていない」という姿勢だ。

 

エイミーには何もない。収入を得る方法は、金目のものをクズ山から探し出すことくらい。

これで未成年2人が生活していくのは無理がある。

※普通に考えて、一番換金性が高い「自分の体を売ること」は、美しい世界観にそぐわないので、検討されることすらない。

 

「本当はこの子『も』不幸になるはずなんだ」という台詞からわかるように、エイミーは自身の境遇を現在進行系で不幸だと思っている。

それを、テイラーを幸せにすることで「こんな困難な社会情勢化にあっても、自分には他人を幸せにする力がある」という満足感で打ち消したいと言っているのだ。

 

④そして、自分ひとりの生活さえままならなかったエイミーが、どのようにして収入を増やし、ふたりの生活を成り立たせていったのかは不明なまま、大貴族のお屋敷から迎えがやってきて、エイミーは「名家のお嬢様」の地位を手に入れる。

それは自分の力でテイラーを幸せにすることを放棄したことに他ならない。

自分といるより、貴族の金と地位で自分、そしてテイラーを保護してもらう方が合理的だと判断したのだろう。

エイミーの社会に対する復讐失敗したのだ。

 

※この場面で、エイミーは離れ離れになるテイラーが泣き叫んでいても彼女に対して何も説明しない。事情を言い聞かせることなく、ただ去ってしまう。

ヨーク家がエイミーを必要としているなら、彼女はヨーク家と交渉することもできたはずだ。「ヨーク家に戻る条件として、テイラーも一緒に連れて行ってほしい。」と。

使用人としてでも構わないなら、ヨーク家もテイラーを受け入れたのではないだろうか?(その方がエイミーを恩を売ることができ、御しやすくなっただろう)

 

他人に対する思いやりや愛を描いているように見せかけて、どの登場人物も自分のことに精一杯。真に他人に対して心を砕くことがないのだ。

 

⑤孤児院に預けられたテイラーの元に、イザベラ(=エイミー)から手紙が届く。

「これは貴方を守る魔法の言葉です。『エイミー』・・・ただ、そう唱えて」

怖い、怖すぎる。

自分の名前を唱えれば、それが貴方を守ってくれる?!

これをあなたが他人から言われたらどんな気持ちだろうか。

・・・正直に言うなら、「自惚れるな、何様のつもりだ」と私なら思う。

 

守られているのはエイミーその人だ。ヨーク家で籠の鳥のような生活を強いられているーーー『エイミー』の名を失い、『イザベラ』になってしまった自分。

テイラーが「エイミー」の名を呼んでくれる限り、確かに自分はそこに存在したことが証明できる

ここでも「自分のことばかり」だ。

 

※外伝では、TV版で仲の良かったヴァイオレットの友人、ルクリアが再登場する。

ルクリアはヴァイオレットと面識のない男性と親しげな様子で、彼女の婚約者なのではないか?と想像される。

あんなに親しかったのに、外伝ではヴァイオレットはルクリアと没交渉になっていて、近況をまるで知らないようだ。

物語の筋に関係なくなると、友人ともあっさりと関係が希薄になってしまう。

このあたりも「本当に思いやりと愛を描く物語なのか?」と首をかしげる所以だ。

 

⑥ヴァイオレットは、テイラーに「困ったことがあったら私を訪ねて下さい」と手紙を出す。

ヴァイオレットひとりではテイラーの面倒をみられないのに、無責任なことこの上ない。

その証拠に、最終的にテイラーはエヴァーガーデン家に預けられてしまうのだ!

毎回、扱いに困った子供を押し付けられるエヴァーガーデン家はたまったものではないだろう。

 

<結論:ヴァイオレット・エヴァーガーデンとは?>

精緻な映像美は語るまでもないので、物語として。

●“善意”で行ったことは絶対に拒絶されず、悲劇も生まず、最終的にハッピーエンドへ向かっていくストレスの少ないお話。

 

●泣かせポイントが散りばめられているので、ストレス発散と「涙を流せる自分」への自己肯定感を視聴者に与えることに成功している。

 

●細かい設定の整合性は元がラノベなので薄目で見るのが吉。キャラ萌できる人におすすめ。

 

 

 

 

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン2021年10月29日金曜ロードショー特別編集版を見た感想

【注意!】

かなり正直に書いたので、辛辣な意見と感じる方もいらっしゃると思います。

作品のファンの方は、不快になる可能性がありますので、読まないことをオススメします。それでも良いと言う方のみ、続きをどうぞ。

 

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、京都アニメーションが手掛ける美しい映像が素晴らしい作品だ。

細やかな作画(特に光と陰、風や水の動き等の自然描写)には驚かされる。

では、「美しい映像」以外の物語部分は一体どのような作品なのだろうか。

 

<戦争が終わったばかりの世界>

孤児であったヴァイオレットは戦時中、軍に拾われ上官の命令に従ってひたすら敵を殺傷する殺人マシーンとして過ごす。

作中の描写から、彼女が兵役についていたのは(おそらく)14歳からの4年間。

その間に彼女の上司であり理解者であるギルベルト少佐とのみ、心の交流があったようだ。

 

●気になるポイント①

そもそも、14歳の「金色の髪に青い瞳、玲瓏な声を持つ可憐な容貌をした少女」であるヴァイオレットが、たった一人で一個師団に匹敵する戦闘能力を持っている設定がトンデモすぎる。

一般的にはこういったトンデモを成立させるために

 ・生まれたときから軍による特殊な訓練を受けている

 ・遺伝子操作されていて、見た目では考えられない超能力を持っている

 ・体の一部が特殊な武器になっている

等の設定を加えるものだが、ヴァイオレットは生身のようだ。

 

小説なら、文字情報だけなので首をかしげる設定でも薄目で読み流すことができるが、映像化されるとなかなかに辛い。

華奢な美少女が銃剣で敵兵を殴り殺していくシーンは、ヴァイオレットの強さに震撼するというより、敵側が滑稽に見えてしまう。

 

そして、戦時中の描写で一番問題だと思ったのは、重傷を負って動けなくなったギルベルト少佐が「(君だけでも)逃げろ」とヴァイオレットに向かって言う場面。

「(一人で逃げるのは)嫌です」と答えるヴァイオレットは「泣いている」のだ!

・・・愛・・・知ってるじゃん・・・。

 

序盤にして、すでに「ヴァイオレットは愛を知らない機械のような人物」という設定が崩壊しているのだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンで使われている「愛を知らない」という言葉は、実は感情表現が下手で、適した言葉を使いこなせない」にすぎない。

 

気になるポイント②

この作品に登場する職業、自動手記人形(ドール)。作中でヴァイオレットが引き受けた仕事は以下の通りだ。

  • イ.手紙の代筆:文字をかけない人、文章表現がうまくない人に代わって手紙を書く
  • ロ.小説・脚本の口述筆記
  • ハ.歌曲の作詞
  • ニ.古文書・古典資料の清書
  • ホ.外交文書の作成・清書

この中で倫理的に問題がなさそうなのはイ、ロ、ニ。

ハはゴーストライターということになるだろうし、ホは普通の国なら官僚が行うので、民間のサービス会社に外注することはあり得ない。

この中でメインになるイの手紙の代筆だが、「依頼者本人でさえ自覚していない本音の部分をすくい取って文章にできる」ことが良い自動手記人形の条件とされている。

 

ヴァイオレットが自動手記人形になりたいと決意するきっかけとなったカトレアによる恋文の代筆の場面で、

恋文に書きたい内容を口述する客が「あ・・・」と言いかけた時、カトレアは「愛している」と客の言葉を遮って、先に続く文章を言い当ててみせる。

一見「良き自動手記人形」の見本のような場面だが、恋心を綴るーーー自分の胸に秘めていた真心を文字にしようと決意した客にとって、先回りして「要するにあなたの言いたいことはこうでしょう」と指摘されることは、たったひとつの自分のこころを、一般化されたような衝撃だろう。

 

つまり、手紙を代筆するーーー客の口述した通りに文字起こしする以外の、ドールの主観を交えた手紙は、もはやオリジナルの客のこころではないのだ。

訓練を積んだドールなら、客が自分自身の口から絞り出したことば以上に「素晴らしい手紙を書ける」というのは傲慢なのではないだろうか?

 

気になるポイント③

自動手記人形という職業が成立する背景として、作品世界では識字率が低い」ことになっている。

ヴァイオレットが働いているC.H郵便社だけをみても、4名もの自動手記人形が所属している。これは、相当数の顧客がいなければ成立しない

つまり、この街にはかなりの人数「文字が書けない人」が存在しているはずなのだ。

 

通常、文字が書けないのは文字が読めないからだ。(文字を読む知識があるのに書けないのは、後天的に視力を失った・手が動かない等の身体的ハンデを負っている場合だろう。)

※ちなみにユネスコでは、識字率を「日常生活の簡単な内容についての読み書きができる15歳以上の人口の割合」と定義づけている。

 

この作品世界の設定では、そもそも手紙を出すことが非常に困難なはずなのだ。

しかし、登場人物たちはみな普通に手紙を読んでいる。

一体どうなっているのだろう・・・。

 

気になるポイント④

伝説の10話と呼ばれている(らしい)「愛する人はずっと見守っている」。

人でなしと言われることを覚悟して書くなら、私が一番受け付けなかったのはこのお話。

まず、アンは7歳の設定だが、7歳の子供はあんな行動は取らない。

アニメで描かれた振る舞いを見るに、アンの態度はせいぜい3~4歳児といったところだろうか。

アンは、「大人が想像した大人にとって都合の良い子供」なのだ。

ダダをこねる様子も、お人形遊びも、母親に甘える様子も、本当に7歳の子供を観察して描いたなら、絶対にあのようにはならない。

机の上だけで想像した「子供」だから、子供の外見をしているだけの「物語を進行するのに必要にして十分な言動をするキャラクター」の域を出ていない=リアリティがないのだ。

 

同じように、アンの母親もリアリティがない。

もしあなたが余命幾ばくもないと知った状態で、我が子が「お母さんと一緒にいたい」と泣いたら?

将来彼女に届く手紙を代筆してもらうことと、生きている「今」最愛の娘を抱きしめることとどちらが大切だろうか?

私なら、貴重な時間を7日も代筆に費やしたくない。1日で切り上げるだろう。

 

そして最もリアリティがないのは、この「母親がアンに宛てた50年分の誕生日メッセージを、ヴァイオレットに代筆してもらう」という設定だ。

想像してみてほしい。10歳、20歳といった節目に子供に語りかけるなら、メッセージを考えるのは容易い。

では、27歳と29歳は?31歳と32歳、44歳、48歳は?

あなたなら一体どんな手紙を子供に書くだろう?

50通の文面を考えているうちに、後半ネタ切れで苦しくなってくるのではないだろうか。

そして何よりーーー50年後の未来も今と変わらない明日が来る保証はどこにもないのだ。

まして、作品世界は大戦を経験してまだ間もない設定なのだからなおさらだろう。

 

※現実的なのは、8歳から20歳までの目まぐるしく成長する13年間ーーー13通だけ書くことだろう。

もしくは、10歳、15歳、20歳、25歳・・・と5年刻みで書く(9通)。

これなら1日で作業は終わる。アンとも十分親子の時間が取れる。

 

<追記:最大の問題点(だと私が感じたこと)

この感想を書いた後も、なんだかモヤモヤした気持ちが残ったので、一体何がそんなに気になるのか考えてみた結果・・・

 

最も重大なことに気づいてしまった。それはーーーー

 

ヴァイオレットが、自分に最も欠けている能力が必要とされる仕事に就いたこと。

わかりやすく、少女が仕事と向き合う中で成長していくアニメという点で共通する「魔女の宅急便」と比較してみよう。

 

魔女の宅急便の主人公キキは、魔法が苦手で出来ることといえば「箒で空を飛ぶ」だけ。

だから空を飛んでお届け物をする「宅急便」を始める。

自分の得意なことを活かそうとするのは、仕事の基本だ。

なぜなら、仕事は顧客から対価を得るから。

お金を受け取るのに、不完全で好い加減な仕事はできない。

 

しかし、ヴァイオレットは自分の情緒に欠けた部分があるからこそドールになるという。

「“愛している”を知りたいのです」

 

それは、空を飛べないキキが「これから“箒で空を飛ぶ魔法”を覚えますので、私に宅急便をさせて下さい。空を飛ぶのがどんな気持ちか、知りたいんです!」と言うようなものだ。

顧客にとって、安全に、時間通りに、決まった場所へ荷物を届けることが宅急便に求める役割であって、キキが空を飛んで気持ちが良いかどうかは関係ない。

 

同じように、ヴァイオレットに求められるのは顧客の気持ちに寄り添い、胸に秘めたことばにならない想いを引き出す能力だ。

彼女自身が「愛している」をどう感じるかは、顧客の預かり知らぬこと。

これは無給のボランティアではなく、「仕事」なのだから。

 

自分に一番欠けていることを仕事にするのは、顧客に対して不誠実だと思うのだ。

 

<結論>

映像の素晴らしさは文句なし!

 

物語はよくある感動モノを継ぎはぎしているため、設定の作り込みが甘い。

そのため矛盾や疑問点が多すぎる。

感動モノは一定の満足感が保証されているので、定期的に作られるジャンル。

泣いた!素晴らしかった!という感情の共有と、「泣く」という行為そのものがストレス解消の効果があって、費やした時間に対する対価が「計算できる=コスパが良い」からだ。

 

一定の感動ストーリーに非常にクオリティの高い映像が加わったことで、内容以上に評価されてしまった作品・・・かな。

ファンの方、ごめんなさい・・・。