チェンソーマン<感想>① first impression
(1巻~11巻)読了、感想を。
<「チェンソーマン」の特異な点>
これは一気読み推奨の漫画だ。
文字通り「命を賭けた」、ド派手なバトルが圧倒的スピード感で描かれていて、各キャラクターに感情移入するヒマがない。
それでいて、ドライで殺伐とした中に感傷的になるシーンがそっとさし挟まれていて、読む者の胸をざわつかせる。
(デンジがレゼと夜の学校を探検するシーンや、銃の魔人と化したアキとデンジが戦う“雪合戦”のシーンなど)
読んでいて驚くのは、「死があまりにも“あっさり”している」こと。
悪魔や魔人たちが、死んだはずなのに蘇ってくる設定も影響しているが、そもそも死ぬ瞬間に「もっと生きていたかった」と望まぬタイミングで命を奪われる自分を憐れむ描写がない。
同時に、各キャクターにとって大切な存在が容赦なく死んでいくが、直接的な悲しみの描写もほとんどない。
泣きわめいたり、身を絞るように絶叫したりしない。
後悔して自分を責め、後を追おうとすることもない。
どのキャラクターにとっても死は身近で、日常生活と地続きなのだ。
このドライな生死感が、作品世界で起こる凄惨な殺戮を、読者が驚くほど平穏な気持ちで読みすすめることに寄与している。
フィクションを味わうとき、人は登場キャラクターに共感(または反発)してその世界に入り込む。
自分の身体を使って得た経験と、そこから派生した想像力でフィクションと自分の間を埋めていくのだ。
チェンソーマンの特異な点は、この共感を意図的に断ち切っているところにある。
主人公デンジは、不幸な生い立ちから、満足な教育が受けられず情緒の成長が止まっている。
(初登場時は、せいぜい小学校高学年程度といったところだろうか)
倫理観も責任感も薄い。彼の興味は常に自分だ。
自分に優しくしてくれる人=良い人
美味しいものをくれる人=良い人
その反対が悪い人、だ。
一見、簡単でわかりやすいが、現実世界で暮らす我々は、そう単純には生きていない。
デンジの選択と行動は「普通、そうはならないだろう」の連続なのだ。
仕事と衣食住を保証してくれたマキマをすぐ好きになる。
マキマのことが好きなのに、レゼのことも好きになる。
大量殺人をしたレゼを復活させ、一緒に逃げようと誘う。
うまい話には何か裏があるのでは?
好きな人がいるのに、他の人を好きになるのは不誠実では?
そんな「常識」から自由なデンジは、少年マンガ誌にあるまじき「欲望に忠実な主人公」なのだ。
デンジの造形は、読者の共感を拒絶するところからスタートしている。
<最も人を理解するモノーーー悪魔>
悪魔は人の恐怖を糧にして強くなる。人が悪魔を恐れる限り、何度でも蘇る。
そうである以上、いかに人の恐怖を掻き立てるかが悪魔の腕の見せどころだ。
だから訳のわからないーー「普通」の人間と違った行動原理をもつ者を悪魔は恐れる。
デンジが「最もデビルハンターに向いている」所以だ。
第80話「犬の気持ち」で、マキマがデンジに向かって言う。
「私に叶えて欲しい事を言ってみて」
デンジにとっては待ちに待った瞬間で、当初の目的だった「セックスしたい」でも何でもーーー「言えば叶う」千載一遇のチャンスだった。
そこでデンジが放ったのは、まさかの「犬になりたい・・・マキマさんの・・・」という言葉だった。
たった一度しか無い機会に、自分の頭で考えること放棄してしまったのだ。
続く第81話「おてて」で、マキマはデンジに聞き返す。
「私の犬になりたい?それってどういう事?」
「本気で言っているの?私の犬は言う事絶対聞かなきゃいけないよ?」
この時点なら、まだデンジは前言を撤回することができた。
マキマもそれを望んでいたフシがある。
しかし、デンジは「自分の思考を停止し、マキマの命令通り生きること」を選ぶ。
マキマにはふたつの目的があった。
ひとつはチェンソーマンを支配して、この世から「死」「戦争」「飢餓」を消し去り「より良い世界」を作ること。
もうひとつはチェンソーマンに食べられ、彼の一部になること。
注目すべきは、マキマにとってこのふたつの目的には優劣がないことだ。
マキマの能力は「自分より程度が低いと思う者を支配できる」だ。
つまり、マキマ自身が相手を見下したり、見限った瞬間に能力が発動する。
デンジが真の意味でマキマに支配されたのは、「マキマの犬になる」と言った言葉を撤回しなかった瞬間なのだ。
デンジが彼自身の自由な思考を手放した時、彼の「訳のわからなさ」は消え去ってしまったのだから。
<得るもの、失うもの>
借金に追われ、明日食べる物にも事欠く生活を送っていた頃、デンジが望んでいたのは「今日をなんとか生き抜くこと」。
ただ“生命を維持する必要最低限のもの”を得ることに注力していれば良かった。
次にデビルハンターになり、衣食が安定して手に入るようになって望んだのは「女性の胸を揉みたい。」
食欲の次は性欲といったところだが、苦労の末ようやくパワーの胸を揉んだデンジの感想は「こんなモン・・・?」だった。
ずっと追いかけて来たものを手に入れても、大したことはなかった。
手に入れる前ーー欲しいと望んで追いかけていた頃の方が幸せなんじゃないか。
落胆するデンジに対して、マキマがかけた言葉はこうだ。
「デンジ君、エッチな事はね、相手の事を理解すればするほど気持ち良くなると私は思うんだ」
ここで描かれているのは、単なる男女の性行為に至る心の機微ではなく、
物事の価値を決めるのはそれが持つ「意味」だということ。
誰とするか。どんなシュチュエーションか。その時の気分は。
同じことをしても、そこにある「意味」によって、その体験は忘れられない素晴らしいものにも、忘れたい最悪なものにもなり得る。
第84話~で悪魔の恐怖を一身に集めたチェンソーマンは最強の存在になり、マキマ率いる「人でも悪魔でも魔人でもない者達」をいとも簡単に蹴散らす。
しかし第89話「がんばれチェンソーマン」でチェンソーマンが世間に認められ、キャラクターとして消費されるようになると、みるみるその力を失っていく。
マキマ曰く
「悪魔達の恐怖が貴方に力を与えました。今それを人間達に食べてもらっています」
悪魔個々がチェンソーマンに自らの身体を切り裂かれ、蹂躙される中で抱く「実感を伴った恐怖」と、メディアによって垂れ流される「不特定多数の情報によって作られたイメージ」。
前者は「意味」の集積、後者は拡散だ。
大衆によって拡散しきって希薄になったチェンソーマンのイメージは、パワーという個人ーーデンジにとって、バディであり友達という唯一無二の存在が持つ記憶によって集積し、復活を果たす。
パワーにとって、チェンソーマンは「地獄のヒーロー」ではなく、自分の同居人であるデビルハンター、デンジの属性のひとつでしかない。
大衆は、世間に流布する情報を常に消費しては捨て去っていく。
対して、個人は固有の体験を、「意味」として自分の中に蓄えていく。
「デンジ、これは契約じゃ。ワシの血をやる。代わりに・・・ワシを見つけに来てくれ」
パワーは、自分とデンジが共有した体験を決して手放さないーーそして、デンジにもそれを求めて消えていく。
チェンソーマンは、劇中で得たもの、失ったものに「どんな意味を与えるか」という物語なのだ。
<マキマとの最後の戦い>
復活したデンジは、チェンソーマンとしてのポチタと、人間としてのデンジに分離した状態でマキマとの最終決戦に臨む。
デンジが再びチェンソーマンになるに至った原動力は「欲」だ。
TVから流れる、チェンソーマンを称賛する声。
映し出される「チェンソーマン!!つきあって!!!」という女子高生が掲げるプラカード。
それを見たデンジは、素直な欲望を吐露する。
女性からモテているのが気持ち良いこと。
貧乏時代にあれほど憧れたジャム付き食パンに飽きていて、本当は毎日ステーキが食べたいこと。
彼女が10人くらい欲しくて、セックスしまくりたいこと。
「だからチェンソーマンになりたい」
欲望を叶えるためなら、大好きなマキマも殺す。
単純で原始的な欲望を持つ者が、一番ブレがない。
ひとつの物事を多角的に考えるーーー色々な意味を与えてしまうことが、迷いにつながり、結果弱さになる。
物事に意味を与えること、それがすなわち「名付け」だ。
悪魔はその「名」によって、恐怖を引き起こす。
銃、爆弾、弓矢、刀といった武器ーーそれらは本来ただの道具で、恐れを感じさせるものではない。
武器によって、傷つけられ命を奪われるイメージが恐怖を生む。
支配、地獄、宇宙、呪い、未来といった「それそのもの」が人を傷つけるものではない存在も、人の想像力ーーー見えないものを見ようとする力が人を脅かす。
名前を得ることは、やがてその名前が使われた様々な事象がイメージの渦になって流れ込み、膨大な属性を持つことにつながるのだ。
チェンソーマンの力は、「食べたものの存在をこの世から消してしまうこと」。
名前を失ったものは認識できない。認識できないものはこの世に存在しない。
イメージの奔流を断ち切れる存在ーーーだから、チェンソーマンは悪魔から恐れられる。
デンジが誰かに理解され、他人と共通の経験を積み重ねるーーー常識の範囲に収まってしまうことを、マキマは許さない。
チェンソーマン自体が、名前に縛られることがあってはならないのだから。
デンジは、戦闘による勝ち負けではなく「いかなる攻撃でも死なないマキマを、バラバラにして食べることで、ひとつになる」という結末を選ぶ。
マキマがデンジと融合することを拒むなら、デンジの体内から彼を破壊したり、排泄物から復活することもできただろう。
しかし、マキマはそれを受け入れた。
最終話「愛・ラブ・チェンソー」冒頭を読むと、デンジはマキマを調理して、内臓や髪の毛一本に至るまで残さず食べきっていることがわかる。
そしてそれは、攻撃や復讐ではなく純粋に愛による行動なのだ。
支配の悪魔にとって、ずっと望んでいた「他者との対等な関係」を築けた瞬間。
それは彼女自身が、「支配」から解放された瞬間でもあった。
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※オマケ
爆弾や銃の方が強いのでは?遠距離から狙えるし・・・一度に沢山殺せるし・・・と思っていたけれど、逆に「だからこそ」チェンソーなのではないか。
つまり、チェンソーで殺すとき、ターゲットにかなり近づかなければならない。
切り刻んでいる間、相手はすぐに死なない。
刀や剣で斬った時のように傷口がキレイではないので、相手の飛び散る血肉を浴びることになる。
苦しみ悶えながら絶命する様を、見届けなければならない。
相手の生命を奪っている実感と罪悪感を、より強く感じるーーーそこから逃れられない(しかも、チェンソーは本来武器ではない!)のだ。
ブウンと唸るエンジンがカッコいいとか、ホラー映画へのオマージュとか、もちろんわかった上で、そんなことを考えました。