夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

新世紀エヴァンゲリオンTV版からシン・エヴァまでを振り返る②

<TV版とシン・エヴァの違い>

では、TV版とシン・エヴァで異なっている点は何か?

 

決定的な違いは、14歳の少年・少女を取り巻く大人たちのスタンスだ。

 

TV版に登場する大人たちは、外見上は「大人」だが、内面は14歳の少年・少女とたいして変わらない。

ネルフ側で最年長者として描かれる冬月コウゾウでさえ、TV版では自分を「俺」と呼称し、精神年齢は40代そこそこといったところだ。

(ちなみに設定上の年齢は、TV版時点で60歳である)

 

シンジの保護者役を担っていたミサトは、セカンドインパクトのトラウマに苦しむあまりシンジのケアを放棄し、彼女自身が加持に救いを求めて「保護される側」へ回る。

リツコも母親への複雑な思いをゲンドウとの歪んだ恋愛によって克服しようとした結果、裏切られて命を落とす。

 

子どもたちを支えるべき大人が、自分の苦しみを乗り越えられずに自滅してしまうのだ。

 

自滅の果てに「すべての苦しみをリセットして、全人類がひとつに溶け合い、欠けた部分を埋め合って救済されよう」としたのがTV版の人類補完計画だった。

つまり、TV版ではすべての登場キャラクターにとって人類補完計画は必要不可欠なものだったのだ。

 

それに対し、シン・エヴァ人類補完計画を必要としているのはたったひとり。

碇ゲンドウだけだ。

 

長い長い第3村での描写は、シンジが自分の価値を確認するための大切なプロセスだった。

みんなが僕に優しくしてくれる。僕を必要としてくれる。

生きていて良いんだ。

そしてそれは、きっとこの世界に存在するすべてのヒトに共通なんだーーー。

 

※第3村で描かれたのは、この村に暮らすあらゆる人は役割を持ち、支え合って生きているという姿だ。

はっきりとした「職業」が描かれたトウジ・ケンスケは勿論、アスカも、「そっくりさん」も。

そして「労働」に参加できない松方の奥さんも、出産という大仕事を成し遂げている。

 

それに続いて描かれたのは、ニア・サードインパクト~サード・インパクトの始末をつけようとするヴィレの姿だ。

 

シン・エヴァのミサトは、自分の意志で決断し、すべての責任を負う艦長として描かれている。

その傍らにいるリツコも、お洒落やメイクを捨て、副官の役割に徹している。

他人に頼り、救いを求めるーーー恋愛に右往左往する「女」はそこにはいない。

 

そして、注目すべきは冬月コウゾウのスタンスの変化だ。

 

TV版ではゲンドウと目的を同じくしていたが、シン・エヴァでは人類補完計画を俯瞰する立ち位置にいる。

計画が破綻することを予見し、諦観しているのだ。

 

冬月は死んでしまったユイと再会することを望んでいる。

しかし、再会した先に「未来」がないこともわかっている。

最初から上手くいくはずのない計画に協力したのは、望みを捨てきれない自分の弱さであり、エゴイズムであることを自覚しているのだ。

 

ーーーやれることはすべてやった。

仮にその先ーーー死者を蘇らせるという自然の摂理に反しても、未来を掴み取れるとしたら、それはユイが夫に選んだゲンドウ、もしくは彼女の息子であるシンジにしか成し得ないからだ。

 

だから、冬月は自分の役割を全うしてLCLに還っていく。

※最期に「君の欲しいものは集めてある」とマリの手助けをするのは、彼の台詞を借りるなら「人には常に、希望という名の光が与えられている」「だが、希望という病にすがり、溺れるのも人の常」だから。

ーーーユーロネルフによるオーバーラッピング対応型のエヴァのパーツ開発。

それがエヴァ・オップファータイプとの戦闘に備えてであることは明白で、最悪の事態を迎えても、人は乗り越えようと足掻く力があることを示している。

 

ゲンドウが自ら「神」になることで望みを叶えようとしたように、人は人の創り出したモノで、神にさえ対抗しようとする。

どちらが未来を手にするかは、その想いが勝った側ということなのだろう。

 

シン・エヴァで描かれた大人たちは皆、自分の行いに自分でケリをつけた。

TV版と役割が変わらなかった大人は、碇ゲンドウだけなのだ。

 

そのため、最終決戦がシンジとゲンドウによる初号機VS十三号機であったことは必然だった。

 

大人としての責任を果たさず、“”最愛の妻を蘇らせるという妄執”に囚われた父との対決。

自分の殻に閉じこもって出てこないーー外界との交流を断ち切っているゲンドウに、まずは自分と対話するように告げるシンジ。

 

TV版が「シンジが他人を受け入れる話」だったのに対し、シン・エヴァ「ゲンドウが他人と向き合う話」だったのだ。

 

★TV版製作時は、庵野監督がまだ若かったこともあり、大人のキャラクターは庵野監督の実年齢に近い精神状態で描かれた。

シン・エヴァのように、自己嫌悪と後悔を飲み下して、それでも諦めないーーー自分の人生に自分で責任を負う大人の姿を描くには、やはり25年の歳月が必要だったのだと思う。

 

③へ→