シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>⑤渚カヲルについて
「今度こそ、君だけは幸せにしてみせるよ」
渚カヲルは、新劇世界の中で明らかにTV版~旧劇の記憶を引き継いでいる「登場人物中のイレギュラーな存在」だった。
それが「生命の書に名前を書き加えられた=円環する物語の中で、何度でも復活する存在」ということだろう。
カヲルはTV版~旧劇~新劇を通して、ずっとシンジを幸せにするために行動してきた。
しかしそれらはことごとく失敗に終わり、むしろ状況を悪化させることさえあった。
シンジが着けていたDSSチョーカーを引き受け、彼の代わりに死ぬことさえ厭わないカヲル。これほど献身的に尽くしても、なぜカヲルはシンジを幸せにすることができないのだろう?
「僕は、君と出会うために生まれてきたんだね」
いつでもシンジを肯定して、優しく接してくれるカヲルは一見シンジにとって理想的な「友達」だが、シンジの主体性を奪う負の部分も併せ持っている。
※Qで傷ついたシンジが、カヲルのことばを盲信してフォース・インパクトを引き起こした原因はそこにある。
リリスから槍を引き抜くと、何が起きるのか。カヲルはシンジに説明しようとしない。「世界を元に戻すことも可能だ」と希望を持たせるだけで、詳細は伏せたままだ。
『僕がすべて君に良いように取り計らうから、心配しなくて良い』というカヲルの態度が、フォース・インパクト発動→それを止めるためにシンジの目の前でカヲル爆死という、シンジにとって最悪の展開を引き起こした。
ここで明らかになったのは、カヲルがリリスに刺さった2本の槍の形状に疑問を抱き「止めよう、シンジくん」と言ったにもかかわらず、シンジはそれを聞き入れなかった=2人の間に、本当の信頼関係は成立していなかったということだ。
カヲルのシンジへの接し方は、過保護な親のようだ。
子供を傷つけるすべてのものを、先回りして取り除いていく。
ひたすら子供を肯定し、甘やかす。
しかしそれは子供のためではなく、子供を永遠に自分から逃れられなくするための呪縛だ。
子供が大人になることを阻み、自分の庇護の下でしか生きられないように囲い込もうとする行為なのだ。
シン・エヴァで描かれたカヲルは「シンジを幸せにすることで、自分が幸せになりたかったのではないか」という本心に向かい合う。
シンジという他人の幸せを行動原理にするカヲルには、「自分自身の幸せというビジョンがない」=強くシンジに依存した状態なのだ。
シン・エヴァのシンジとカヲルの対話のシーンで、シンジはカヲルに手を差し出す。
「仲良くなるためのおまじないだよ」
仲良くなることは、一方的に何かを与える関係ではない。相手に手を差し伸べ、それが握り返されたときに初めて成立する、対等で相互補完的な関係だ。
※これは、アヤナミレイが第三村でシンジに対して行っていた働きかけと同じだ。
「仲良くなるためのおまじない」
「わたしに名前をつけてほしい。碇くんがつけた名前になりたい」
レイは、シンジと触れ合うことで自分が変わるのを恐れていない。
むしろ変化は喜びであり、これからも変わり続けることを望んでいた。
シンジは、イマジナリー(空想)の世界ではなく、現実世界で他人と触れ合うことで自分以外の誰かと一緒にいる幸せを感じられるようになった。
今までの自分は、他人を求めながらも拒絶し、自ら孤独の中へ逃げ込んでいた。
黙って殻に閉じこもっているだけでは、誰とも対等な関係は築けない。
それに気づいたシンジは、ようやく自ら他人に触れられるようになったのだ。
「カヲルくんは、父さんに似てるんだ」
シンジへの態度は真逆といって良いゲンドウとカヲル。
しかし、その根底に流れている考え方は、実は共通している。
「自分の言うとおりに行動することが、シンジにとって最善なのだ」と、シンジ本人の意志を確かめる前に決めてしまうこと。
自分以外の誰か(カヲルにとってはシンジ、ゲンドウにとってはユイ)を「自分の幸せにとって必要不可欠なもの」と思い込み、依存していること。
「君は、現実世界でもう救われていたんだね」
このカヲルの台詞は、ゲンドウの「大人になったな、シンジ」と意味するところは同じだ。
シンジの成長を認めたカヲルは、最後に加持と一緒に農園を歩いていく。
加持「老後は、葛城と一緒に土いじりでもどうです?」
カヲル「それもいいね」
ふたりは画面に背を向けて、遠くへ歩き去ってしまう。そして彼らの姿を観客から完全に断ち切るように撮影所のシャッターが降りる。
シン・エヴァ劇中で死亡した加持と一緒に、去っていくカヲル。
それを見た時、「ああ、カヲルは成仏したんだ」と感じた。
加持とカヲルが向かう先にミサトがいるのだとしたら、ふたりが歩いていく農園は「あの世」なのだろうか。
それとも彼らが生きている世界線なのか?
それは見た人の心に委ねられている。ただはっきりしているのは、本当の望みを自覚し、シンジから離れる決断をしたカヲルは、もう2度とエヴァのいる世界に復活することはないということ。
月に安置された無数の棺桶の中から、カヲルが蘇ることはなくなったのだ。
※そしてこのシーンで、カヲルと同時に加持とミサトも救われているのがとても良かった。
シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>④アスカについて
新劇でアスカは散々にシンジを「ガキ」だと罵る。
しかし14年の月日を経ても、アスカの本質的な部分は変わっていないように思える。
Q冒頭で、初号機の中で眠っていたシンジがサルベージされて、彼と再会したアスカが真っ先に行ったのは「シンジを殴ること」。
14年たってもアスカのシンジへの怒りは消えていなかった。
シンジはニア・サードインパクトを引き起こし、世界を破滅寸前に追い込んだ罪と、目の前でカヲルを失ったショックで自分の殻に引きこもってしまう。
そんなシンジに容赦なく罵声を浴びせるアスカの姿は、ひたすら彼を優しく見守るトウジやケンスケとは対照的だ。
しかし一見乱暴に見えても、シンジを一番気にかけているのはアスカだ。
※そしてシンジもアスカの本心には気づいている。「どうしてみんな優しいんだよ!」と泣くシンジが言った「みんな」には、アスカも含まれている。
アスカは生ける屍のようなったシンジを、叱咤しながら「本当に死なないように」管理している。
彼女はそれがヴンダーで受けた命令だから仕方なく行っていると「思い込もうとしている」ようだが、わざわざアヤナミレイに「あんたたちアヤナミタイプは第3の少年に好意を持つように調整されている。」と告げたのは、自分自身に言い聞かせる必要があったからだろう。
シン・エヴァで式波アスカがアヤナミレイと同じように、クローンであることが明かされた。
シキナミタイプのオリジナルは、惣流アスカなのだろう。
惣流アスカは旧劇で弐号機の中に母親の存在を見つけ、欠けていた愛情が満たされたことで「補完」は終わっている。
※しかし、ラストに問題があり、彼女が旧劇の世界で本当に救われることはなかった。
そのアスカをオリジナルとするシキナミタイプには、父親も母親もおらず、惣流から受け継いだ記憶の断片である「パペット」だけが心の拠り所だ。
式波アスカが、「自分は何者か」に苦しむのは、惣流よりさらに親の不在が突き詰められた出自だからだろう。
アヤナミタイプと同じように、クローンであるシキナミタイプのアスカもシンジに好意を持つように調整されている。
すべては決められたプログラム通りの感情で、アスカにとってみれば非合理で不愉快。
しかし、頭でわかっていても感情を消すことはできない。(それがマリがアスカの髪の毛をカットする場面で示唆されている)
「死装束」を着て臨むネルフ本部への出撃時に、わざわざ寄り道してまでシンジに「最後に聞いておきたい。どうして私があの時あんたを殴ったか、その理由はわかったの?」と詰め寄るのは、その直前まで自分の気持に折り合いがついていなかった証拠だ。
プログラムされた感情(シンジへの好意)を「偽物、本当の自分の心じゃない」と感じて抵抗するアスカと、「その感情を持っている自分が『今まさに存在していること』は事実」として受け入れているアヤナミレイは、シンジを挟んで対極にいる。
アスカとケンケン
アスカは(まだ)ケンスケと恋愛関係にはない。ただ、気を許して信頼しているのは間違いない。
彼の家に居候しているのは、ヴィレとの連絡が取りやすい環境にケンスケがいるからだろうし、彼の前で裸でウロウロしているのは、もはや「自分がヒトではなくなった=男だ女だという以前の問題」だからだろう。
だからシンジに全裸を見られても、隠すどころか「ほら、見ろ」と言わんばかりの態度をとっている。
※ケンスケと恋愛関係にあるのなら、わざわざ自分の裸を見せびらかすようなマネはしないだろうし、ケンスケだってそれを許さないだろう。
ケンスケにとっても「14年間水以外必要としない、年をとらない少女」は異性として意識する対象にはなり得ないのだろう。
ただ、14年間の彼女の苦労を見聞きしている分、思い入れは強く、彼女の父親のような気持ちでいるのではないだろうか。
エヴァ13号機との戦闘で、使徒化したアスカがアスカオリジナルと出会う場面で描かれる式波アスカの過去は断片的だ。
複製体が常に何体か用意されているアヤナミタイプと違い、シキナミタイプは同じクローン同士で競わせ、最も優れた個体以外は処分されていたのではないだろうか。
(シン・エヴァの中で、培養槽にいる沢山のアスカが徐々に減っていく描写があった。)
自分は沢山いるアスカの中から選びぬかれたエリートなのだ、という「感情」が弐号機とシンクロするために必要不可欠だからではないかと想像する。
※かつての惣流アスカに似た存在を作り出すために必須の要素のため。
アスカがシンジに執着するのは、プログラムされた感情によるのはもちろんだが、
①シンジが自分より優れた戦績を上げるエヴァパイロットであること
②「親との確執を抱える欠落した自分」を持っているから だろう。
①は、エリートたる自分が好意を持つ相手は、それなりの実力者であるべきという価値観から+同じ特殊な環境にいて、共感しやすい(共感してもらいやすい)から
②は「自分は何者なのか」に悩む姿が自分と重なるから
だ。アスカは、形を変えたシンジなのだ。
だからこそ、最後にアスカを救うのはシンジにはなり得ない。
式波アスカを救ったのは、第三村にいるケンスケだった。
パペットの着ぐるみを脱いだケンスケが「アスカはアスカだ。そのままでいいんだよ」と彼女に告げるのは、アヤナミレイが第三村でたどり着いた答えと同じだ。
たとえクローンでも、今自分が感じて、悩んでいるすべてが自分自身を形作っていること。
未来は誰にもわからない。ただ「今」のありのままの自分が存在すること。
それだけは確かで、それで良いのだ。
そのことに気づいたアスカは「エヴァに乗ること」から解放された。
誰かに褒められるために、認められるためにエヴァに乗らなくて良い。
第三村に帰って、新しい生活を始めて良いのだ。ケンスケはうまくアスカと第三村の人々の仲を取り持ってくれるだろう。
波打ち際にいたアスカは誰か?
プラグスーツが旧劇のものだったことから、惣流アスカだろう。
惣流アスカは、「まごころを君に」ラストでシンジに首を締められ、「気持ち悪い」と言った後、ずっとあの浜辺に取り残されていたのだ。
浜辺でひとりきり14年を過ごしたアスカは、28歳の姿になっている。
※その間に彼女は成長しているので、プラグスーツのサイズがきつくなっている。
シンジ「アスカのこと、好きだったよ」
旧劇で有耶無耶になっていたシンジとの関係に終止符が打たれ、惣流アスカの心残りも消えた。
そこで初めて、式波アスカと惣流アスカは統合され、新しい世界=第三村のケンスケの家へ帰ることができた。
28歳の姿になったアスカは、これからケンスケと恋愛をするのかもしれない。そうでないかもしれない。
未来はわからない。
ただ、第三村に自分の居場所を作っていくことができるはず。そんな希望のあるラストだった。
★台詞はうろ覚えのため、間違っている場合があります。記憶を頼りに書いているため、ご容赦ください。
シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>③ヴィレ女性クルーについて
シン・エヴァで変化した女性キャラたち。大人としての責任を果たすということ
ヴィレの女性キャラ3人(葛城ミサト、赤木リツコ、伊吹マヤ)は新劇でわかりやすく「女を捨てた」。
マヤは、旧劇では戦自に攻撃されても銃で応戦せず、机の下に隠れて泣くばかりだった。
当時、旧劇を見ながら戦自がネルフ職員を容赦なく殺していく場面で、戦自に対して怒りを覚え、マヤの「普通の人の感覚=たとえ自分が死んでも、人殺しをするよりマシ」に共感した。
けれど、すぐ思い直した。マヤは軍人なのだから、マギやエヴァンゲリオンを敵に奪われないように防衛することが職務。その遂行のためには武器をとって反撃するべきなのだ。
一見非道に見える戦自に所属する人々も、ネルフ職員に私怨はなく「仕事」を粛々とこなしているにすぎない。
新劇のマヤは年下の男性部下を叱咤し、危険な状況下でも仕事を全うしようとする(そしてそれを他人にも期待する)冷徹さを身に着けている。
恐らく今、ヴンダー艦内で銃撃戦が起きたら、彼女は迷いなく敵を撃つだろう。
リツコはゲンドウとの愛人関係を匂わす描写がバッサリカットされ、キャラクターとしての立ち位置が「人類が生き残るために、自らの科学力を捧げる研究者」としての役割に絞り込まれている。
※TV版~旧劇でリツコがゲンドウと愛人関係にあったのは、リツコほどの頭脳明晰な女性が、ゲンドウの自分勝手な人類補完計画に深く関わり、協力する動機が「男女の仲」くらいしか思いつかなかったからではないかと(個人的には)思っている。(それはリツコの母、ナオコも同じ)
無愛想で高圧的、独善的なゲンドウが、女性にモテモテなのがどうしても違和感があるのだが、合理的な説明がつかないことは「恋愛」という「理屈で説明できないこと」に押し込めて蓋をしているように思えてならない。
新劇ではリツコが担っていた人類補完計画の核心部に迫る立ち位置を冬月コウゾウに移すことで、リツコをゲンドウの呪縛から解放している。
物語の構造の整理としては、大成功だったと思う。
(シン・エヴァでリツコが問答無用でゲンドウの頭を銃で吹き飛ばす場面は、TV版~旧劇の彼女の最期を知っている観客への目配せだろう。見ていて素直にスカッとした。)
ミサトはマヤ、リツコと異なり「子供を産む」というもっとも女性らしい出来事を経ながら、自分の意志で女を捨てている。
加持リョウジ(恋人)が、
・海洋生物研究所でセカンド・インパクト以前の海を取り戻すために活動していたこと
・来たるべきサード・インパクト、フォース・インパクトから地球上の生命を守るため、「方舟」を作ったこと
・彼とミサトの間に子供が生まれたこと
は、同じ重要な意味を持つ。
子供は、両親の遺伝子を半分ずつ引き継いで生まれてくる。
いわば子供は、親の遺伝子を残すための「方舟」なのだ。
これは、物語の終盤ゲンドウがシンジの中に亡き妻ユイの姿を見つけて「そこにいたのか、ユイ」と漏らす場面に繋がっている。
加持リョウジ(恋人)が地球上の種を保存し、いつかこの星を元の生命が満ち満ちている状態に還そうと尽力していたこと。
ミサトがそれを理解し、自分の中に託された彼の遺伝子を未来に残そうとしたこと。
それと対比することで、観客は終盤のシンジとゲンドウの戦い+対話の場面において、より強くゲンドウの悲劇性を感じることができる。
ゲンドウは自分自身の望みのために、シンジと向き合うことを避け続けた結果、皮肉にもその望み=妻との「再会」を果たすまで14年も費やしてしまった。
TV版~旧劇まで、ミサトはシンジの保護者になるはずが、自分のトラウマに引きずられて「大人になりきれない大人」として中途半端な立ち位置にあった。
一番違和感があったのが、旧劇の「Air」で戦自にネルフが武力制圧される中、ミサトがシンジをエヴァ初号機まで送り届けるシーン。
「大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょう」
一般的にはミサトがシンジを大人の男として扱った名場面扱い・・・になるのだと思うけれど。
保護者に徹しきれず、女の部分が時折どうしても顔を出してしまう、ミサトの生々しさが現れたシーンだと思う。
TV版~旧劇のミサトの生々しさ
TV版23話では、レイを失って落ち込んだシンジのところへミサトが行き、「シンジ君。今の私にできるのはこのくらいしかないわ。」と言ってシンジの手を握ろうとする。
「やめてよ!やめてよミサトさん・・・。」
ここでは、ミサトはシンジにはっきり拒絶されている。その後に続く
「(寂しいはずなのに。女が怖いのかしら。いえ、人との触れ合いが怖いのね。)」
というミサトのモノローグで、彼女が保護者として彼を慰めようとしたのではなく、「女の武器」を使おうとしていたことが伺える。
冷静に考えると、これはかなり怖い。
29歳の大人の女性が、自分の家に引き取った14歳の少年に性的な関係を迫るというのは、エロ漫画では許されても現実世界では犯罪だ。
※男女の設定を入れ替えて想像してみれば、ゾッとする人は多いのではないだろうか?
そしてフィクションのアニメ世界においても、体の関係(一時的な快楽)で嫌なことを忘れるのは、問題の先送りに過ぎない。
ミサトは、加持との関係でそれを嫌というほど味わったはずなのに、また繰り返そうとするのか・・・と当時複雑な心境になったの覚えている。
この部分について、「スキゾ・エヴァンゲリオン」のスタッフインタビューの中でちらっと触れられている。
鶴巻 「ミサトをやっぱりちゃんと描かなければならなかった。本当は初期設定というか、このポジションにいる女だっていうところを、ちゃんと決めて描いていくことが、作品としてやるべきことだった。ところが、肩入れし過ぎていく過程で、ミサトはシンジとはなんの関係もない女になっていくという。あれはやっぱりね。」
貞本 「生々し過ぎるんだけど、その生々しさが・・・。」
鶴巻 「いいんですけどね。それはいいんですけど。」
貞本 「作品の中にはまってない。」
鶴巻 「そう。作品を高める役にはなってないっていう感じですか。ミサトのキャラクターだけが立って、あれで泣いた女もいるっていう話を聞きますけど。作品の中には、別にはまってないと・・・。
TV版・旧劇のミサトの振る舞いは、当初意図されていた「シンジを支え、守る保護者」の役割から次第に逸脱していったことが伺える。
新劇で一番大人になったのは、シンジではなく実はミサトだと思う。
やっと本来の「意図された役柄」になれたということだろう。
ミサトは、序の時点から「責任はすべて私にあります」と繰り返し、大人としての責務を果たそうとしてきた。
息子の加持リョウジと会わないと決めたのは、育児放棄ではなく彼を始めとするサード・インパクト後の世界を生きる子供たちの命を守ることが、自分の使命だと思い定めたからだろう。
・世界の破滅を目論むネルフにかつて籍を置き、(知らぬこととはいえ)ゲンドウの計画に加担したこと。
・終局へと向かう絶望的な世界に、子供を産み落としたこと。
・シンジにニアサード・インパクトの罪をすべて押し付ける形になったこと。
それらが重い足枷となり「子供を産んだから、その子のために戦場を離れて母親として生きる」という選択肢は、ミサトにはなかったに違いない。
シンジは、加持リョウジ(息子)のことを「良いやつだったよ。僕は好きだよ」とミサトに告げる。
両親がいなくても、リョウジはまっすぐな好青年に育っているようだ。
リョウジはケンスケを始めとする第三村の人々と良好な関係を築き、自分の居場所をしっかり持っているのだろう。
ミサトは彼と直接会うことはなくても、折に触れて遠くから彼を見守り続けてきたのではないだろうか。
第三村が手厚くヴィレによって封印柱で守られていること、エヴァパイロットに不測の事態が起きた時、一時避難する場所が第三村のケンスケの家になっていることは、リョウジがそこにいることと無関係ではないだろう。
新劇では、ミサトにとって実の息子リョウジと並び、シンジはもうひとりの「息子」だった。
ミサトはやっと大人としての領分を守り、シンジと接することができるようになった。
彼女が寄りかかることができるのは、かつては加持リョウジ(恋人)であり、リョウジ亡き後は長年の友人リツコだけだ。
全員が大人として自分の足で立ち、他人に責任転換せず、自分の責務を果たしている。
シンジに新しい槍を届け、ヴンダーとともに爆死したミサトの最期、
「リョウジ、ごめんね。母さんあなたにこれしかできなかった」は、自分で自分の成すべきことを選び取り、使命を全うした末にようやく母親に戻れたミサトの「本心をやっと吐露できた」場面だった。
※旧劇の「加持くん・・・わたし、これで良かったわよね」の、他人に自分の決定の是非を問いかける最期とはまったく違う。
「自分のやったことに落とし前を着ける。」
新劇を貫くテーマのひとつを、もっとも体現していたのは、ミサトだった。
シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>②第三村について
シン・エヴァで印象的だったのは、地に足をつけて生活している人の描写だ。
冒頭の第三村のシーンは、第二次世界大戦後の焦土から立ち上がる日本の姿とリンクする。(あるいは、近年の大災害に見舞われた被災地の復興の様子と。)
Qまでの主な舞台:科学の粋を集めた要塞都市・第三新東京市の生活は、極めて人工的なものだった。
使徒との戦いで街はたびたび破壊されるが、コンビニに行けばすぐ食品が買えるし、ビルも兵器も次の使徒との戦闘時には復活している。
しかし第三村の生活は基本的に自給自足。
自分で土を耕し、作物を植え、収穫しなければならない。
アヤナミレイが田植えをするシーンでは、コンバイン等の機械は登場しなかった。
足を田のぬかるみに埋め、レイが転ぶシーンは、田植えを経験したことがある(もしくは泥あそびをしたことがある)人なら、生暖かくて重く、湿っている泥の感覚を思い浮かべることができたのではないか。
第三村の描き方は、見ている者に身体的な記憶を思い起こさせる。
第三新東京市が徹底して皮膚感覚を排除していたのとは対照的だ。
そして印象的なのが「出産」。
無免許の医師として第三村で医療を担当するトウジの元には、出産を控えた妊婦が訪れる。
アヤナミレイが初めて第三村で出会った生物「ネコ」も妊娠している。
トウジの妻になった委員長(=洞木ヒカリ)は、トウジの子ツバメを産んでいる。
ヒカリがツバメに授乳しているシーンで、アヤナミレイは自分の胸に触れる。
その時、ヒカリは「あなたにはまだ無理よ」と言っている。
エヴァの呪縛に囚われたパイロットは、ヒトとしての成長が止まる。
睡眠や、食事をとる必要もない。
それはアスカやレイ(おそらくマリも)生理がこない=子供を産むことができないことを意味している。
しかし、それを知らないヒカリの台詞「『まだ』無理よ」には、レイにもひょっとしたら、別の世界線で母親になる未来もあり得るのではないかという希望を抱かせる。
そして何より、どんなに世界が壊れても、ヒトは生きることをやめない。
子を生み育て、命をつないでいく。
ヒトが生きられない荒廃した大地と海を、時間はかかっても癒やし、元のあるべき姿に還すことができる。
そんなヒトの持つ強さと未来への希望を強烈に感じる。
※さらに付け加えるなら、無免許の医師しかいない第三村で出産するのは、かなりのリスクが伴うはずだ。
(トウジの家で振る舞われた食事の内容をみると、栄養状態も良いとはいえない様子。妊娠中~出産後も赤ん坊の生存率は低いのかもしれない)
事実、劇中で「出産した松方の奥さんは難産だった」と言っている。
子供を生み育てる女性(本来なら一番に庇護される存在)も、命をかけて戦っているという意味合いがあるのかもしれない。
レイはクローンとして誕生し、シンジに好意を持つことが最初からプログラムされている。
命令に従えばよいだけの(それ以外何も期待されていない)「人生」。
しかし、アヤナミレイはシンジを好きだと感じることがたとえ誰かの命令でも「いいの、それでもいいと感じるから」と答える。
人は誰もが、環境の影響を受けている。
例えば、生まれる場所や、両親が誰なのかを子供が選ぶことはできない。
「自分で決定し、選び取ってきた」と感じているものは、実はある程度最初から規定されているのだ。
生まれ育った地域の慣習、親の思想、収入。それらにふさわしい行動を要求されながら、人は育つ。
だからといって、自分の意志でそれらを変えられないわけではない。
「世界の姿」は、自分がどう捉えるかで変化する。
アヤナミレイと式波アスカは「クローンとして生まれた」という意味では同じだが、世界との繋がり方は異なっている。
式波アスカは、クローンである自分の出自に対し、強烈なコンプレックスと諦めを感じている。
傭兵のように、敵がくればエヴァに乗って戦う。今生き残っているヒトを守る。それだけが生きる意味で、「自分の幸せ」を考えることを意識的にシャットアウトしている。
シン・エヴァでアヤナミレイが「プログラムされた自分」を受け入れているのは、第三村にやってきてから得た「ありのままの自分を肯定する」気持ちからだ。
アヤナミレイは土に触れ「汗水たらして働き」「同じ釜の飯を食う※1」ことで、人々と有機的に繋がる方法を獲得しようとしていた。
※1:これは、もし綾波レイが企画していた「彼女の手料理による食事会」が開催させていたら、ゲンドウとシンジの関係に良い変化が起こったのではないかという希望も同時に抱かせる
彼女はシンジと握手しようとする。「仲良くなるためのおまじない。」
手と手を触れ合わせ、お互いのぬくもりを感じて相手を知ろうとする。
シンジにとってそれは、一番求めていると同時に一番拒絶していたことだった。
世界と繋がる方法を獲得しようとするまさにそのとき、アヤナミレイは活動限界をむかえ、LCLに還ってしまう。
シンジが彼女を失って、生きる意志を取り戻したのには必然性がある。
アヤナミレイが渇望しながら得られなかったもの。
それをまだ自分は、得ることができる。自分自身が望みさえすれば。
次に第三村で描かれたエッセンシャルワーカーの姿について。
コロナ禍で注目されることになった「エッセンシャルワーカー」。
日常生活における、必要不可欠な仕事に従事する人を意味する。
トウジは無免許ながら、医師として第三村の医療を担っている。妻ヒカリは、その手伝いをしているようだ。
ケンスケは「なんでも屋」と自分を評しているが、ヴィレの下部組織クレディットと連携を取り、生き残った人々への物資の供給や、第三村をヒトの生息できる環境に保っている「封印柱」のチェック、水源の調査管理といったインフラの維持に携わっている。
そして、アヤナミレイを受け入れる農業に従事する女性たち。
年配のこの女性たちの昔ながらの知恵が、コンバインが入れない変形した狭い水田で稲を手植えすることに役立っている。
(大都会第三新東京市で、田を作り、育苗して手植えする方法を知っている人がいただろうか?)
生き残った人々が各地から寄り集まってできた第三村だからこそ、異なる世代間の交流と互いが持つ知恵が生きることに必要不可欠なのだ。
シンジは、28歳になったトウジやケンスケの姿を見て、「みんなすごいな、人の役に立って」という感想を抱く。
少しうがった見方をすれば、「エヴァに乗って戦うシンジ(虚構の世界のアニメ)=生活に必ずしも必要ではない、十分な衣食住が保証されて初めて享受できる『娯楽』を作っている庵野監督」からの、「現実世界で営まれている『生活に根ざした仕事』を責任をもって全うしている人々に対する憧れとエール」が描かれているように思う。
※そういえば、シン・ゴジラでも直接ゴジラを兵器で攻撃する自衛隊員以外に、運送業、鉄道業に携わる人々が、自分の仕事を全うする姿が描かれた。
新劇では、ヤシマ作戦においてTV版では登場しなかった電力会社の職員が描写されている。
しかし、NHK「プロフェッショナル」で監督自身が語っていたように、「自分にはこれ(=アニメを作ること)しかできないから(自分の命より作品が大事)。」
という強烈な自負と、覚悟も感じる。
それはシンジがこの後ヴンダーに戻り、自分と自分の父が行ってきたことに対して「落とし前を着ける」ことにつながっていく。
シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレなし>①上映前の気持ち
シン・エヴァンゲリオンを見て、正直な感想は「終わった、本当に終わった」。
面白い・面白くないより先に、きちんと完結したこと。
それが尊くて見終わった後は満足感でいっぱいだった。
私がTV版に出会ったのは旧劇(Air / まごころを君に)がリアルタイム上映中のこと。
大学の友人が「すごいアニメがある。TV放送ではきちんと終わらなかったから、完結編を映画館へ見に行く。」と興奮気味に語り、「今からでも追いつけるから、これ貸してあげる!」と録画テープ(当時はビデオだった)を手渡された。
見始めると、従来のロボットアニメとは一線を画す斬新な設定と、キャラクター&メカニックデザインに驚いた。
主人公なのに、正義のために戦う覚悟がない。地球を守るという崇高な理想や、強くなりたいという向上心もない。
ないない尽くしの「ごく普通の少年」が、過酷な戦いに翻弄される姿に釘付けになった。
そして伝説の25話、26話を見て友人の「TV放送ではきちんと終わらなかった」の意味を理解した。
こんなアニメが公共の電波に乗ったのか・・・放送事故じゃないか・・・
呆然とすると同時に、「こういうのもアリなんだ」と妙に嬉しかった。
きちんとした(体裁の整った)作品はわかりやすいし、納得がいく。
でも、それは予定調和の結末を迎えることを意味する。
大団円であっても、悲劇的な最後であっても、「いつか見たことがあるような」ラストにならざるを得ない。
しかし、TV版エヴァは「誰もこんなもの見たことがない」作品だった。
すごいものを作る人がいるんだな・・・大人が「仕事として」こんなことをしても許されるんだ。
それは、これから社会に出て「型にはめられていく」タイミングだった私にはとても小気味好い、大人の開き直り方のように感じた。
「頑張ったけど時間が足りませんでした!精一杯やった結果がこれです!」
全力で取り組んだのなら、そんな言い訳も許されるのかもしれない。
(もちろん、投げつけられる批判はすべて受け止める覚悟が必要だけれど。)
全話見終わり、友人にビデオテープを返した。そして尋ねた。
「映画はどうだった?面白かった?」
すると友人は
「うわああああああああああ!!」と頭を抱え、感想を述べずに走り去ってしまった。
私が友人の気持ちを理解するのは、その後数年の時間を要した。
「Air / まごころを君に」を、いつどのように見たのか、実ははっきり覚えていない。
シン・エヴァを見るためにTV版、旧劇をDVDで見直してみて確実に以前見たことがあることはわかったけれど、記憶は茫洋として曖昧だった。
改めて見直すと、旧劇のオタクに対する攻撃性に満ち満ちた表現は、あからさますぎてたじろぐほどだ。
シンジが戦いで傷ついて動けないアスカの裸をみて自慰する場面は、2次元の美少女キャラクターに性的欲望を抱くオタクへの揶揄だろうし、後半の「映画を見ている観客を、突如スクリーンに映す」というのはもっとわかりやすい。
気持ち、いいの?
その場面に重ねられたことばは、きっと劇場で初めてこの映画を見たオタクを打ちのめしただろう。
「オタクたちよ、現実に帰れ」
それが旧劇のテーマだったそうだが、空想の世界で衒学的に「考察」をしたり、勝手に感動したり怒り狂ったりするオタクに庵野監督が辟易し、傷つけられ、追い詰められていく様子がフィルムに焼き付いているようで、見ていて辛くなった。
旧劇の間中、シンジはずっとエヴァに乗ることに否定的で、ネルフ職員が戦自に殺害されていくのにも無関心。
自分の殻に閉じこもって、そこから出てこない。
ミサトが命がけで彼を守り、散っていってもすすり泣くだけで、敵を取ろうなんて気はまったくない。
彼の世界には、自分しかいない。アスカを好きなのも、アスカなら自分を受け入れてくれるのではないかという期待から。
空虚な自分を埋めてくれる相手なら誰でも良い。それをアスカ本人に見透かされているから、拒絶されてしまう。
どこまでも救いがない。そして何も解決しない。
さらに新劇の序・破・Qを復習して、不安はつのるばかりだった。
本当にエヴァンゲリオンは終わるのだろうか?
不安7割、期待3割で映画館へ向かったのは2021年3月14日のことだった。
シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレなし>
シン・エヴァンゲリオンを家族揃って見てきた。
開場を待つ劇場のロビーには、驚くほどの緊張感が漂っていて、その特殊さにたじろいだ。
何だかとんでもないものを、これから見ることになるんじゃないか。
きちんと理解できる内容なのか?
そしてエヴァンゲリオンは本当に終わるのか?
期待と不安がが綯い交ぜになった気持ちを抱きながら、それをうかつに言葉にしてはいけないピリピリとした空気が充満していて、皆静かに「その時」を待っていた。
ついに、待ちに待った上映開始。
その後は怒涛の2時間35分で、気がつけばラストシーンだった。
トンネルの中を爆走するトロッコにしがみついているような「一度乗ってしまったからには、終点に着くまで降りられない」感覚。
終盤のシンジとゲンドウの対決と、その決着。
シンジの望んだ新しい世界。
徐々にトンネルが出口に向かい、明かりが差してくるような救いのあるラスト。
エンドロールを見ている間、席を立つ人はいなかった。
水を打ったように静かで、身じろぎもしない。
それぞれの心に去来する感情は様々だったろうけれど、不思議な満足感に包まれていたように思う。
終わった。本当に終わった。
いくつかの謎は残り、これからも考察は続くのだろう。しかしそれは本筋とは別の話。
劇場を出て、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ感覚。
「ああ、これがラストでシンジが感じた清々しさかもしれない」
さらば、すべてのエヴァンゲリオン。
ネタバレありの感想はまた後日、改めて。
ウイングスパンの考察<2人プレイ限定>
前回の「ウイングスパンを放出する理由」で書ききれなかった、『2人プレイで気になったこと』について。
そして、ウイングスパンを遊んだ感想のまとめ。
<2人プレイで気になったこと>
①ピンク帯カードの存在価値が低い
鳥カードの中には、ピンクの帯で効果が書かれたカードがあります。
これらのカードは「他のプレイヤーが該当する行動をした時」に発動します。
ですから、仮に第1ラウンドで個人ボードにプレイし、毎ラウンド1回必ず発動するとしても、2人プレイ時は最大4回しか発動しません(!!)
実際に使ってみましたが、発動する率は相当低いです。
2人プレイ時は、山札から除いても良いと思います。
そのくらい、恩恵が薄いです。
②餌ダイスと、鳥カードの回転率が低い。
餌ダイスは「ダイストレイ上にダイスが無くなる」か、「ダイスの示す餌の種類が1種類になったら」振り直すことができます。
しかし、2人プレイで相手プレイヤーが餌の獲得&鳥カードを必要としない状態になると、ダイスの数が動かず、鳥カードの入れ替えも減ります。=ゲームが膠着してしまう。
2人プレイで「種類の違う3つの餌が必要な鳥カード」をプレイするのは、相当にハードルが高いです。
卵や手札をコストとして支払っても良いから、ダイス振り直しと、カード入れ替えの権利はあった方が良かったと思います。
③次ラウンドで必要になる餌が不明
これは2人プレイに限りませんが、ラウンドの終了時に、カード置き場にオープンされた鳥カードをすべて捨札にし、新しい鳥カードと入れ替えます。
次のラウンドで獲得したい鳥カードのために、餌を準備することができないのです。
カード置き場にオープンされた3枚以外に、次ラウンドで登場する鳥カードは3枚程度見えていた方が良いと思います。
しかし、作者がそうしなかった理由もわかります。
ウイングスパンのカードデザインは、鳥を中央に大きく配置し、カード効果は下部に小さな文字で書かれています。
デザイン性を重視して、視認性に関しては目をつぶっているのです。
カード効果以外の「生息地」「プレイに必要な餌の種類と数」「勝利点とカード上に配置できる卵の数」もカードを獲得する際、重要な情報です。
それらをストレス無く読み取るギリギリの枚数が、3枚なのだと思います。
(選択肢を増やすため、6枚のカードオープンで遊んでみたらどうなったかを、文末の<おまけ>に書いてみました。)
<まとめ>
ウイングスパンを遊んでみて
ウイングスパンは、個人ボードに鳥カードを並べ、そのカード効果をコンボさせることが楽しいゲームです。
個人ボードは他プレイヤーによって邪魔されることはなく、とても平和で、淡々とゲームが進みます。
相手プレイヤーとのインタラクションはほとんどありませんから、ひたすら自分の個人ボードの上で、最適行動をとることになります。
インタラクションがあるとしたら
①餌ダイスの獲得
②鳥カードの獲得
③他プレイヤーの行動で発動する効果を得る時
の3つです。
いずれも戦略的にコントロールすることはできないので、「思い通りに行動できたらラッキー」というデザインです。
このゲームを「軽い」と表現されることがありますが、個人的には「薄い」と言った方が実際のプレイ感覚に近いです。
このゲームが「軽い」=初心者でも楽しめる、簡単なゲームか?というと、決してそうは思いません。
カード上の情報は多く、文字が小さいので、カードを覚えてしまうまではじっくり効果を読む必要があります。
効果的なコンボを考えながら、目的カードを達成し、最終的な勝利点を積み上げていくのはむしろ「初心者に対しては要素が多すぎる」と思います。
かといって、ヘビーゲーマーから見ると、ゲームシステム自体は「どこかですでに遊んだことがある」もので、新規性はその美しい鳥カードと巣箱型ダイスタワー、鳥を個人ボードに呼び寄せる「収集」というアートワークとテーマにしかありません。
初めてプレイしたとき、私も夫も「何というか・・・ふわっとしたゲームだね」という感想でした。
「ふわっとしている」。
もっとゲームバランスを突き詰めるなら、前記事でも書いたように「ラウンドごとに登場するカードを分けるべき」だと思います。
しかし、作者はあえてそうしなかったのだろう、と今は思います。
運要素をかなり大きく取ること。
それが、この美しく平和で淡々としたゲームを愛好してくれる層にアピールするという計算なのでしょう。
「この鳥、かわいいねー!」「意外と大きいんだね」「こんな餌食べてるんだ!」という会話が、このゲームにおけるインタラクションなのだと思います。
そして、それがこのゲームの楽しみ方なのだとも。
鳥たちを図鑑のように個人ボードに収集し、固有の能力を響き合わせてより強いアクションを行う。
美しいコンポーネントと、アイディアは名作になり得るポテンシャルを十分に持っています。
カードの能力調整さえきちんと行えば、末永く遊ばれる定番ゲームになったでしょう。
もったいない・・・ただただ残念です。
<おまけ>
我が家のプレイ環境&ゲームの好みからすると「ノットフォーミー」という残念な結果になりましたが、何とか2人でも楽しく遊べないかと試行錯誤しました。
試してみた2人プレイの工夫を最後にご紹介します。
①オープンする鳥カードを6枚にする→✕オススメしません。
実際に、6枚並べてみました。「ウッ!!」と圧迫を感じます。
カードテキストを6枚分読むのはかなり時間がかかり、ゲームのテンポが悪くなりました。
はっきりと「情報が多すぎる!!」と頭を抱えるレベルです。
もしオープンカードを増やすなら、4枚が精一杯なのでは?と思います。
②初期カードを5枚ではなく、8枚配る←◯オススメします。
「気に入らないカードばかりだった時、引き直せば良いのではないか?」という意見を読んだことがありますが、「気に入らないカード」の基準が曖昧なため、平等に8枚初期カードを配ることで、選択肢を増やしてみました。
結果、プレイコストの高いカードばかり引く確率が下がって、好感触でした。
8枚カードを配ったとしても、初期で手持ちの餌は各種類1個ずつ、合計5個しかありません。
カードを手元に残すためには、カードの枚数分、餌を破棄する必要があります。
→最大手元に残せるカードは5枚まで。
実際は2~3枚しか手元には残しませんから、ゲームバランスを壊すことはありません。
③毎ラウンド最初に、餌ダイスを全部振り直す←◯オススメします。
2人プレイしか試していませんが、バランスは崩れず、スムーズに餌の獲得アクションができます。
ゲームの膠着を防ぐことができました。