夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

チェンソーマン<感想>② 第1部を読んだ結論らしきもの。

チェンソーマンは感想①を書くのに、ほぼ丸一日かかってしまうほど難産でした。

面白いんだけど、その面白さを言語化できないーーー何が面白いかを自分自身が咀嚼しきれないという、不思議な作品です。

①を書いてから、気持ちが熟成してきたので続きを書きました。

 

チェンソーマンはバトル漫画ではない>

当初、悪魔とヒトのバトル漫画かと思いながら読み始めたが、すぐにそうではないことに気づいた。

「勝ち負け」が重要なバトル漫画では、そう簡単にキャラクターが復活したりしない。

倒した敵が再び立ち上がったり、流血して死んだ味方が何事もなかったかのようにピンピンしていては、いつまでも「勝負」がつかないからだ。

 

また、バトル漫画において「自らの命を投げ売って味方を救う」というシュチュエーションは、普通そう何度も使えない。

たったひとつしかない命を捧げる行為は、作品の大きな山場。

それを繰り返しては、命の価値が軽くなりすぎ、読者のカタルシスが削がれてしまう。

 

チェンソーマンは、この「普通の作品作り」ぶっ壊したところからスタートする。

 

チェンソーマンは選択の物語>

チェンソーマンの世界では、生死はさして重要ではない。

 悪魔は地獄で死んで、この世に転生する。

 ヒトも死んで、悪魔と一体化すれば魔人として生きながらえる。

そもそも数多く描かれる死につながる場面ーーー例えば、悪魔との契約で体の一部を失ったり、悪魔の攻撃で手足をもがれるなどーーーは、痛みや苦しみを感じさせない極めて淡々とした描写だ。

 死が特別でない世界で、一体何が大切なのか?

 

チェンソーマンで最も重要なのは、「意味を与えること」「選択すること」だ。

 誰とどんな関係を結ぶのか。

 いつ、どんな発言をするのか。

 誰を愛し、誰を憎むのか。

人が何か(誰か)と出会ったとき、それをどう定義するか(意味をあたえること)。

その関係を続けるか、断ち切るか。(選択すること)

チェンソーマンは、それをそれぞれのキャラクターが繰り返す物語なのだ。

 

ただ、ここで注意したいのは「意味を与える」のは自分一人で決定できないことだ。

相手がいる以上、相手がこの関係をどう定義するかで、選択肢は変わる。

関係は一対一である場合もあるし(恋人やバディ、兄弟など)、その他大勢である場合もある(メディアの情報で自分を知った、直接関わりのない人々など)。

 

意味を与えること、選択することはつまり「この世界をどう捉えるか」だ。

世界は人の数だけ様々な意味を持っている。

そこに溢れるモノやサービス、娯楽も様々な消費のされ方をする。

そこで、デンジという「普通の人間から見れば不合理で、訳のわからない行動をする」主人公が暴れまわる。

 

デンジの行動は「訳がわからない」故に、読者の「世界への認識」を揺るがせる。

常識で凝り固まったものの見方から強制的に引き剥がされて「別のものの見方がある可能性」の前に立たされる。

 

デンジが子供のように情緒が未発達の主人公として登場したのは、彼が世界と出会い、倫理や道徳から自由な状態で、どのように意味を獲得していくかを描くためには必然だったのだ。

同時に、デンジ自身にとっても起きた物事は常に多面的な意味を持ち、「今」は正しいと思った選択が、将来も正しいかどうかわからないーーー意味は常に変化し続けることも示唆されている。

 

第一部では、デンジが世界をどう認識するのか、いくつかの方法が示された。

第二部では、手に入れた方法を使って、彼が望む世界の姿が読者の前に立ち現れてくることになるのだろうか?

 

二部が再開したとき、この感想がまったくの的外れになっている可能性があるのが、とてもワクワクする。