新世紀エヴァンゲリオンTV版からシン・エヴァまでを振り返る③
<旧劇ーーTV版、新劇との断絶>
ラストに至る道のりは違えども、主張は同じだったTV版と新劇。
しかし、旧劇(Air/まごころを君に)だけはその性格を大きく異にしている。
旧劇は、ひたすらシンジが
「誰か、僕に優しくしてよ」
「怖いんだ、嫌われるのが怖いんだ」
「誰か、僕を助けてよ!」
と他人に救いを求め、それでいて差し伸べられた手をすべて払いのける物語だ。
エヴァに乗らない僕には価値がない。でも、もう1度エヴァに乗るのは怖い。
堂々巡りに陥ったシンジは、自分の精神世界に閉じこもったまま、あらゆる決断を放棄する。
自分が戦略自衛隊に殺されるかもしれない局面でも、逃げも隠れもしない。
ただ屍のようにそこに「ある」だけだ。
ミサトが文字通り命を賭けて彼を救出しても、シンジはめそめそと泣くだけ。
ミサトの遺言を受け止めて奮い立つわけでも、自分からエヴァに乗るわけでもない。
突如動き出した初号機に導かれるまま、搭乗席に座ったに過ぎない。
<だからみんな、死んでしまえばいいのに・・・>
旧劇のポスターに書かれたキャッチコピーそのままに、救いのないストーリーが展開していく。
戦自に蹂躙されるネルフ本部、量産機に惨殺されるアスカ、それを見て精神崩壊するシンジ。
TV版最終回後に巻き起こった庵野監督へのバッシングが、旧劇を暗く覆っているのは間違いない。
他人による悪意と攻撃を「ネット空間で飛び交う庵野監督への罵詈雑言」の形で映画に取り込み、この映画をスクリーンで鑑賞中の観客さえ客体化して見せる。
現実とフィクションの相克をこれほど生々しく描いたのは、当時の庵野監督の精神状態が色濃く反映されているからだろう。
たとえ傷ついても、他人と一緒に生きていきたい。
TV版で描かれた結論を無邪気に踏襲するには、他人の悪意を浴びすぎたのだ。
TV版最終回で、大勢の登場キャラクターに囲まれ「おめでとう」と祝福の言葉を浴びたシンジ。
「ありがとう」ーー晴れやかなシンジの笑顔は、視聴者に「良くわからないけれど、ハッピーエンドだったんだな」と思わせるに十分だった。
それに対し、旧劇はLCLの海から再び実体化したシンジが、「たった一人の他者」として実体化したアスカの首を締める。
旧劇のシンジは、他者への恐怖を克服できていないのだ。
ーー自ら他者がいる世界を望んだにもかかわらず!
そして何より、ユイと初号機の存在が旧劇だけ異質なのだ。
ユイは「いずれ人類が死に絶えてしまっても、初号機の中で自分の魂が生き続ける限り、人類が生きた証は残る」と言っている。
ロンギヌスの槍をたずさえて宇宙空間を遠ざかっていく初号機は、さながら新劇の「生命の方舟」のようだ。
しかし、初号機の中にあるのは「すでに肉体的には死を迎えた、ヒトの魂」だけなのだ。
息子を救うでもなく、人の生命の痕跡として永遠に宇宙空間を彷徨うことを選んだユイ。
その痕跡を、一体誰が見つけてくれるというのだろう?
「他者とともに生きていく」という結論は辛うじて守り抜いたものの、他人を信じることができず、誰も救済できなかった旧劇。
ここまで庵野監督を追い詰めた当時の「視聴者の悪意」に戦慄を覚えるとともに、あの頃、今のようなSNSがあったら・・・
本当に庵野監督は自ら命を絶っていたのではないか、という恐怖を感じる。
そして同時に、これほどの「どん底」を経験しても、25年の時を経てキャラクター全員に納得できる結末を用意した庵野監督の誠実さと、作品への愛情(というにはあまりに重いーーむしろ作り手としての責任感か)に胸を突かれるのだ。
※新劇で突如登場した「ネブカドネザルの鍵」や「ゴルゴダオブジェクト」で顕著だが、エヴァに登場する思わせぶりな小道具は「思わせぶり」以上の意味はない。
しかし、TV版の頃から、作中に散りばめられた聖書由来の小道具たちの謎を解き明かそうとする一部のファンの存在が、エヴァを肥大化させていった。
考察という名の、「耽溺」としか言いようのない執着ーーー作り手も、視聴者も、キャラクターたちも、それに縛られ苦しめられてきた。
旧劇は、その最も苦しい時期に創られた物語であるがゆえに、あのラストしか選べなかったのだ。
シン・エヴァが、執着からの開放ーー現実社会への帰還を成し遂げた清々しさに溢れているのを見るとき、想起するのは映画が終わり、明るくなった客席だ。
ずっと映画館に居続けることはできない。席をたち、日常生活に戻らなければ。
しかし、映画から得た衝撃や感動は「いつもの日常」に持ち帰ることができる。
映画館の中より、外は眩しく明るい。
そんな当たり前のことを視聴者に届けるのに、25年を要したーーー。
それこそがエヴァの新奇性であり、また特異な点だったのだ。