夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

新世紀エヴァンゲリオンTV版からシン・エヴァまでを振り返る①

新世紀エヴァンゲリオンTV版(全26話)、旧劇(Air/まごころを君に)、新劇(序・破・Q・シン)を再視聴したので、改めて感じたことを。

 

エヴァンゲリオンとは、そもそも何だったのか>

BSで放送されていた新世紀エヴァンゲリオン(TV版)を録画して視聴していたが、全話見終わった。

 

俗に言う「おめでとうEND」を改めて見た感想は、「決して悪くない。」

むしろ限られた時間と予算の中で、出来るかぎり誠実に作った結果だったのだと感じた。

 

TV版と新劇で描かれていること、その方向性は、25年経っても変わらない。

エヴァンゲリオンは、TV版できちんと完結していたのだ。

 

TV版で物議を醸した作画崩壊(突然エンピツ描きにコピック彩色のラフ画のようになる描写)だが、それは完成品が間に合わなかったので、製作途中のものを公共の電波に乗せてしまった放送事故ーー25年前はそう思われていたーーではなかったのだ。

 

シン・エヴァを見れば明らかなように、これはエヴァンゲリオンフィクションの世界=他人によって創られた物語であることを視覚化するための手段だ。

つまり、極めて意図的にこれらの乱暴な作画が行われているのだ。

これは、シン・エヴァのラストで初号機と十三号機が特撮セットの中で戦闘するシーンで「あえて作り物めいたクオリティを残した」のと同じ手法だ。

 

※TV版ラストでも、シン・エヴァで見られた「TV局のセットの中で、キャラクターが喋る」演出がすでになされている。(!)

 

エヴァンゲリオンで描かれた最も強いメッセージは

「自分の中に閉じ籠もれば、傷つかなくて済む代わりに、自分の価値、生きる意味を見失ってしまう。

なぜなら、人は他人との関わりの中で初めて、自分がどんな人間なのか知ることができるからだ。

自分を好きでない者は、他人に優しくできない。他人を受け入れられない者は、自分を赦せない。

すべての人を隔てる壁が取り払われ、ひとつに溶け合っても孤独が癒やされることはない。そこには自分ひとりしかいないのだから」

 

使徒は人類にとっての敵であり、人類の別の可能性ーー「自分にとっての他人」を強烈な形で視覚化したモノだ。

ATフィールドは他人を拒む心の壁。自分を「自分の形に保っている殻」

 

重要な物語上のアイテムは実はこの2つだけで、それ以外のーー例えば生命の樹死海文書、アダム、リリスといった「謎」は物語に深みを与え、ラストまで視聴者を惹きつけるための「最初から正解などない、思わせぶりな謎」でしかないのだ。

 

※そのため、散りばめられた「謎」はTV版、旧劇、新劇で少しずつ異なる。

それぞれの物語を成立させるために効果的だと思われる「意味」をその都度与えられているので、一貫した役割を持たないのだ。

 

極言すると、細部の「謎解き、考察」は無意味=破綻が最初から約束されている

製作者が破綻しても良い、それより面白さを追求するべし、と思い定めて作っているのがエヴァだからだ。

 

人造人間エヴァンゲリオンは、最も多感な時期である14歳の少年・少女の揺らぐ自我をヒトの形に留めるための、強力なATフィールドを具現化した姿なのだ。

エヴァンゲリオンが1万2000枚の特殊装甲で鎧われていることは、逆説的に14歳のこころの脆弱性を際立たせているとも言える。

 

→②へ続く