シン・エヴァンゲリオン1周年生特番<感想> 真希波・マリ・イラストリアスについて
シン・エヴァンゲリオン劇場公開1周年を記念して、
今まで書いていなかったマリについての感想を。
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新劇「破」から参戦した新キャラ、マリ。
彼女はそもそも、なぜエヴァンゲリオンの世界に「後から」やってきたのだろうか。
漫画版「新世紀エヴァンゲリオン」14巻掲載の「夏色のエデン」に、彼女とゲンドウ、ユイが大学在学中のエピソードが描かれている。
しかし、これが直接「破」の前日譚になっているとは思えない。
「夏色のエデン」のマリは、「乳が大きくない」。昭和歌謡曲も歌わない。
ふざけた楽天家でもない。
キャラクター造形が新劇とかなり異なっているのだ。
ここで描かれたマリの設定で、新劇に引き継がれているのは
・ゲンドウ・ユイとともに京大の冬月研究室で学んでおり、エヴァンゲリオンの基礎研究に携わっていた。
・高い能力を評価されて、イギリスに留学した
ことだけだろう。
※「夏色のエデン」で、マリはユイに対して恋愛感情を抱いている設定だ。
しかし、この恋愛感情は十代の女子特有の「憧れを恋愛と勘違いする」心情だと思われる。
自分より優れた能力を持つ相手に対し、正面から対立し、戦いを挑むのはとても辛い。
それよりも、相手を「好き=自分にとっての“特別な人”」にして棚上げする方が、自意識は傷つかずに済む。
明らかな能力の差を自身に納得させるための、防衛本能のようなものだ。
そして、新劇の中でもマリは「時系列で考えると」一貫したキャクターではないのだ。
破の序盤、エヴァ仮設5号機での第3の使徒との戦闘時、マリは「操縦者、操作思考言語を固定願います」というネルフ職員の問いに「初めてなんで、日本語で」と答えている。
この時がマリのエヴァンゲリオン初搭乗なら、マリはいつ「エヴァの呪縛=搭乗時の年齢から外見が変化しない呪い」を受けたのだろうか?
ひとつの可能性として考えられるのは、ユイによるエヴァンゲリオンへのダイレクトエントリーが失敗したことを受けて、マリがエントリープラグ方式の搭乗方法を研究開発、イギリス留学中に自らを被験者とする実験で「呪縛」を受けたーーーだろう。
もしそうだとすると、気になるのは第3の使徒との戦闘終了時の加持の台詞だ。
「大人の都合に子供を巻き込むのは気が引けるな」→マリを外見年齢と同じ、子供だと思っている=加持はマリがゲンドウやユイと同窓だと知らないことになる。
ここまでは良いとして、次のマリの台詞が腑に落ちない。
「エヴァとのシンクロって聞いてたのよりキツイじゃん。(中略)自分の目的に大人を巻き込むのは気後れするな」
→エヴァとのシンクロ自体が初めてなら、イギリスでの実験中にエヴァの呪縛を受けたという仮定は成り立たなくなる。
「自分の目的に大人を巻き込む」=マリの自己認識は「子供」ということになり、実年齢がゲンドウやユイと変わらないという想像も難しい。
その一方で、シン・エヴァ終盤にマリと冬月が2番艦の中で交わした会話
マリ「お久しぶりです、冬月先生。」
や、冬月が持っていた幼いシンジを抱いたユイが写った過去の写真に、マリが一緒に写り込んでいたことから、マリの容姿が長い間変化していないことが匂わされている。
マリについては、破→Q→シンと新劇がインターバルを置いて制作されていく中で、最も設定が変化し続けたキャラクターなのではないだろうか。
恐らく、設定を突き詰めて考えると辻褄が合わない部分が多くなりすぎ、マリの詳細はあえて語られなかったし、物語としての彼女の存在意義は「矛盾を抱えていても何ら問題ない」のだろう。(理由については後述)
<物語の「外」からやってきた少女>
各所の庵野監督のインタビューを読むと、マリのキャラクター造形(外見、内面とも)は、鶴巻監督のアイディアが強く反映されている。
少女なのに胸が大きい、人との距離感が近い、陰りがなく根っからポジティブ。どれもこれまでのエヴァンゲリオンキャラクターでは見られなかったマリの特徴だ。
シン・エヴァンゲリオン劇場公開1周年生特番の中で、視聴者から投げかけられた質問ーーー「庵野監督は、エヴァンゲリオンをどのくらい理解していますか?」に対しての答え「半分ちょっとでしょうか」が、偽らざる「事実」なのだろう。
※「事実」ではあるが、それが「真実」であるとまでは言い切れない。そのためあえて「事実」と記述する。
TV版エヴァから関わるスタッフ、TV版、旧劇を見て新たに加わったスタッフ・・・大勢の造り手が提示するアイディアの中から、面白いものを取り入れてブラッシュアップするうちに、初期設定と矛盾が生じる箇所もあっただろう。
庵野監督でさえすべてを把握しきれないほど、キャラクターや汎用人形決戦兵器としてのエヴァンゲリオン、作品世界に登場する組織(ネルフやヴィレ、クレーディト等)などの設定は膨れ上がっていったに違いない。
しかし、多少の矛盾より「作品全体として見たときにより面白くなること」を何より優先して作られたのがシン・エヴァだった。
それは、同じく1周年生特番の質問
Q:今回のエヴァンゲリオンを作っていくにあたって 過去のエヴァ作品とあえて同じにした もしくはあえて変えた様なものはありますか?
A:あえて変えたのは自分達の経験等を反映させた物語構造をやめて、フィクションとしての強度を持った物語構造にしたところです。
という解答でも明らかだ。
TV版、旧劇では物語が進むにつれ、当初意図したキャラクターの設定が崩壊し、ミサトもアスカもリツコも全員が「シンジ」になってしまった。
・ひたすら愛を乞うひと。
・自分自身のことで精一杯で、他人のことまで思い遣れない、世界に「自分」しか存在しないひと。
皮肉なことに、制作が予定通りに進まなかったことが旧劇までのエヴァを難解なものにし、王道の「少年の成長物語」から逸脱した結果、伝説的なアニメとなった。
対してシン・エヴァでは、加持、ミサト、リツコ、ゲンドウ、シンジ・・・旧劇までは責任を半ば放棄したような退場を余儀なくされたキャラクターたちが、見事に自分の役割を全うして去っていった。
フィクションの舞台で生きているキャラクターたちに、物語の中で花道を作るーーー言い換えれば、「もう二度と復活しなくて良いように引導を渡す作業」を、シン・エヴァでは155分かけて行ったのだ。
新劇から新たに登場したマリだけは、これらの「過去のしがらみ」から完全に自由なキャラクターだ。
シンジに対しても、アスカに対しても、彼らの自発的な行動を待つだけで決して彼らを教え導くメンターの役割にはならない。
常にニュートラルな立ち位置で、TV版からのレギュラーキャラクターたちを補佐する。
マリは、TV版から続く作品に散りばめられた謎(=回収しきれなかった設定と自己矛盾)と、各キャラクターたちが「やり残したこと」、そこに絡みつく「考察」という名の視聴者の思惑を解きほぐし、作品としてのエヴァンゲリオンを解放するために「物語世界の外からやってきた存在」なのだ。
<確実なことーーーマリ≠安野モヨコ>
1周年生特番の中で最も注目するべき質問と、その解答を引用する。
Q:マリは奥さんの安野モヨコさんがモデルというのは本当?
A:マリのモデルが妻だと解釈した文章や動画等を散見しますが、それは一部の人の解釈・憶測にすぎません。マリの人物像(アスカ他もですが)は鶴巻監督の手によるところが大きく、制作時の事実とは違います。
キャラクターやストーリーの解釈は観客の自由な楽しみですし、本作にもファンのフリーな知的な遊び場としての余地を持たせています。
しかし偏った憶測でスタッフや家族を貶められるのはあまりに哀しいことなので、この点についてはハッキリと否定しておきます。
シン・エヴァに奥様である安野モヨコさんの影響があるとしたら、
・第3村のおばさまたちや、鈴原家の赤ん坊(ツバメ)等のデザイン
といったモヨコさん創作のキャラクターによる作品世界の広がりがひとつ。
そしてもうひとつーーー物語構造をフィクションとして強化するという意味では、こちらの方がはるかに重要だと思うのだがーーー
・きちんと食事をとること
・誰かのために、何かをしようと決意し、実行すること
といったキャラクターたちの「真っ当に生きる姿勢」が描かれたことだろう。
※モヨコさんの作品、働きマンやオチビサンを読むと、現実世界で懸命に「地に足をつけて」生きていく物語が描かれている。
シン・エヴァの第3村で繰り返し描かれたのは、「誰かがいるから自分も存在していられる」のを実感させる、血が通った日常の風景だった。
それらの「誰かの存在によって生かされている視点」は、監督が伴侶を得たことと無関係ではないだろう。
つまり、マリというキャラクターがシン・エヴァで『シンジを物語世界の外へ連れ出す重要な役割』を担うに至ったひとつのきっかけが他人と一緒に暮らすことーーー奥様の存在だったのではないだろうか。
シン・エヴァは、大人になったシンジがマリの手を取り、アニメの駅ホームから実写となった駅構外へ駆け出して行くシーンで終わる。
Q:マリとシンジは何処に向かって行ったんでしょうか?
A:先日残念ながら閉店した「喫茶らいぶ」です。
1周年生特番の解答は示唆的だ。
2人は「終劇」の後、シン・エヴァ公開当時は実在した喫茶店へ向かい、おそらくそこで一緒に飲食し、会話するのだろう。
自分以外の存在をそばに感じながら、食事をする。
それが実写で描かれていること。
フィクションの世界で自分の内面に閉じこもっていたシンジが、光差す外へ飛び出していくラストは、この映画を見終わった後、席を立ち家路につく観客たちへの何よりの強いメッセージだった。
26年間、エヴァンゲリオンというフィクションの世界を背負う主人公だったシンジを、作品世界から解放するのは、新しい外の世界からやってきたマリにしかできない芸当だったのだ。