夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>②第三村について

シン・エヴァで印象的だったのは、地に足をつけて生活している人の描写だ。

 

冒頭の第三村のシーンは、第二次世界大戦後の焦土から立ち上がる日本の姿とリンクする。(あるいは、近年の大災害に見舞われた被災地の復興の様子と。)

Qまでの主な舞台:科学の粋を集めた要塞都市・第三新東京市の生活は、極めて人工的なものだった。

使徒との戦いで街はたびたび破壊されるが、コンビニに行けばすぐ食品が買えるし、ビルも兵器も次の使徒との戦闘時には復活している。

 

しかし第三村の生活は基本的に自給自足。

自分で土を耕し、作物を植え、収穫しなければならない。

アヤナミレイが田植えをするシーンでは、コンバイン等の機械は登場しなかった。

足を田のぬかるみに埋め、レイが転ぶシーンは、田植えを経験したことがある(もしくは泥あそびをしたことがある)人なら、生暖かくて重く、湿っている泥の感覚を思い浮かべることができたのではないか。

 

第三村の描き方は、見ている者に身体的な記憶を思い起こさせる。

第三新東京市が徹底して皮膚感覚を排除していたのとは対照的だ。

 

そして印象的なのが「出産」。

無免許の医師として第三村で医療を担当するトウジの元には、出産を控えた妊婦が訪れる。

アヤナミレイが初めて第三村で出会った生物「ネコ」も妊娠している。

トウジの妻になった委員長(=洞木ヒカリ)は、トウジの子ツバメを産んでいる。

 

ヒカリがツバメに授乳しているシーンで、アヤナミレイは自分の胸に触れる。

その時、ヒカリは「あなたにはまだ無理よ」と言っている。

エヴァの呪縛に囚われたパイロットは、ヒトとしての成長が止まる。

睡眠や、食事をとる必要もない。

それはアスカやレイ(おそらくマリも)生理がこない=子供を産むことができないことを意味している。

しかし、それを知らないヒカリの台詞「『まだ』無理よ」には、レイにもひょっとしたら、別の世界線で母親になる未来もあり得るのではないかという希望を抱かせる。

 

そして何より、どんなに世界が壊れても、ヒトは生きることをやめない。

子を生み育て、命をつないでいく。

ヒトが生きられない荒廃した大地と海を、時間はかかっても癒やし、元のあるべき姿に還すことができる。

そんなヒトの持つ強さと未来への希望を強烈に感じる。

※さらに付け加えるなら、無免許の医師しかいない第三村で出産するのは、かなりのリスクが伴うはずだ。

(トウジの家で振る舞われた食事の内容をみると、栄養状態も良いとはいえない様子。妊娠中~出産後も赤ん坊の生存率は低いのかもしれない)

事実、劇中で「出産した松方の奥さんは難産だった」と言っている。

子供を生み育てる女性(本来なら一番に庇護される存在)も、命をかけて戦っているという意味合いがあるのかもしれない。

 

 レイはクローンとして誕生し、シンジに好意を持つことが最初からプログラムされている。

命令に従えばよいだけの(それ以外何も期待されていない)「人生」。

しかし、アヤナミレイはシンジを好きだと感じることがたとえ誰かの命令でも「いいの、それでもいいと感じるから」と答える。

 

人は誰もが、環境の影響を受けている。

例えば、生まれる場所や、両親が誰なのかを子供が選ぶことはできない。

「自分で決定し、選び取ってきた」と感じているものは、実はある程度最初から規定されているのだ。

生まれ育った地域の慣習、親の思想、収入。それらにふさわしい行動を要求されながら、人は育つ。

だからといって、自分の意志でそれらを変えられないわけではない。

「世界の姿」は、自分がどう捉えるかで変化する。

 

アヤナミレイと式波アスカは「クローンとして生まれた」という意味では同じだが、世界との繋がり方は異なっている。

式波アスカは、クローンである自分の出自に対し、強烈なコンプレックスと諦めを感じている。

傭兵のように、敵がくればエヴァに乗って戦う。今生き残っているヒトを守る。それだけが生きる意味で、「自分の幸せ」を考えることを意識的にシャットアウトしている。

シン・エヴァアヤナミレイが「プログラムされた自分」を受け入れているのは、第三村にやってきてから得た「ありのままの自分を肯定する」気持ちからだ。

 

アヤナミレイは土に触れ「汗水たらして働き」「同じ釜の飯を食う※1」ことで、人々と有機的に繋がる方法を獲得しようとしていた。

※1:これは、もし綾波レイが企画していた「彼女の手料理による食事会」が開催させていたら、ゲンドウとシンジの関係に良い変化が起こったのではないかという希望も同時に抱かせる

 

彼女はシンジと握手しようとする。「仲良くなるためのおまじない。」

手と手を触れ合わせ、お互いのぬくもりを感じて相手を知ろうとする。

シンジにとってそれは、一番求めていると同時に一番拒絶していたことだった。

 

世界と繋がる方法を獲得しようとするまさにそのとき、アヤナミレイは活動限界をむかえ、LCLに還ってしまう。

 

シンジが彼女を失って、生きる意志を取り戻したのには必然性がある。

アヤナミレイが渇望しながら得られなかったもの。

それをまだ自分は、得ることができる。自分自身が望みさえすれば。

 

次に第三村で描かれたエッセンシャルワーカーの姿について。

コロナ禍で注目されることになった「エッセンシャルワーカー」。

日常生活における、必要不可欠な仕事に従事する人を意味する。

 

トウジは無免許ながら、医師として第三村の医療を担っている。妻ヒカリは、その手伝いをしているようだ。

ケンスケは「なんでも屋」と自分を評しているが、ヴィレの下部組織クレディットと連携を取り、生き残った人々への物資の供給や、第三村をヒトの生息できる環境に保っている「封印柱」のチェック、水源の調査管理といったインフラの維持に携わっている。

そして、アヤナミレイを受け入れる農業に従事する女性たち。

年配のこの女性たちの昔ながらの知恵が、コンバインが入れない変形した狭い水田で稲を手植えすることに役立っている。

(大都会第三新東京市で、田を作り、育苗して手植えする方法を知っている人がいただろうか?)

生き残った人々が各地から寄り集まってできた第三村だからこそ、異なる世代間の交流と互いが持つ知恵が生きることに必要不可欠なのだ。

 

シンジは、28歳になったトウジやケンスケの姿を見て、「みんなすごいな、人の役に立って」という感想を抱く。

少しうがった見方をすれば、「エヴァに乗って戦うシンジ(虚構の世界のアニメ)=生活に必ずしも必要ではない、十分な衣食住が保証されて初めて享受できる『娯楽』を作っている庵野監督」からの、「現実世界で営まれている『生活に根ざした仕事』を責任をもって全うしている人々に対する憧れとエール」が描かれているように思う。

※そういえば、シン・ゴジラでも直接ゴジラを兵器で攻撃する自衛隊員以外に、運送業、鉄道業に携わる人々が、自分の仕事を全うする姿が描かれた。

新劇では、ヤシマ作戦においてTV版では登場しなかった電力会社の職員が描写されている。

 

しかし、NHK「プロフェッショナル」で監督自身が語っていたように、「自分にはこれ(=アニメを作ること)しかできないから(自分の命より作品が大事)。」

という強烈な自負と、覚悟も感じる。

それはシンジがこの後ヴンダーに戻り、自分と自分の父が行ってきたことに対して「落とし前を着ける」ことにつながっていく。