犬王感想<ネタバレあり>
アニメーション制作:サイエンスSARU
脚本:野木亜紀子
と、制作陣にビッグネームが揃った劇場アニメーション「犬王」
2022年6月5日に見に行ってきました。
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鑑賞後の正直な感想は
「合う、合わないがハッキリ出る映画。手放しでオススメし辛い。」
映画口コミサイトをチラリと覗いたところ、やはり賛否両論。
まずは私が感じた「否」の部分を。
(ちなみに後半書く「賛」こそがこの映画の核部分だと思っています)
<室町✕ロックコンサート>
平家が壇ノ浦で滅び、さらに鎌倉幕府も滅んだ後の室町時代が舞台。
南北朝に分かれ、不安定な政治状況下で戦が絶えなかったこの時代、民は疲弊し都は荒れ果てていた。
そんな荒んだ時代に現れた2人のロックスターが主人公。
猿楽一家に生まれるも、不気味な容姿ゆえ謡うことも舞うことも許されず、周囲に疎まれて育った犬王。
海に沈んだ平家の呪いにより、父を亡くし自身は盲になってしまった琵琶法師、友魚。
2人は出会った途端に意気投合し、互いの才能が化学反応を起こして、エンターテイナーとして京の町を席巻していく。
前半は友魚が琵琶法師になるまでの経緯と、犬王の置かれた境遇の説明→2人が出会い、新しいエンターテイメントを作り上げるまでのサクセスストーリーだ。
2人に共通するのは、その身に「呪い」を受けていること。
光を失った友魚の目が見えるようになることはないが、犬王は芸を極めることで、自身の異形の体が人としてのあるべき姿に戻っていく。
忘れ去られようとしている平家の物語を、拾い集めて広く世間に伝え聞かせるーーー声にならない敗者の声を聞き、代弁することで彼らの生を(死を)人の心に刻む。それが成仏できず彷徨っている怨霊たちを鎮めていくことに繋がる。
そしてその対価として、犬王は呪いから解放され、友魚は自分が生きている実感を得るのだ。
アニメーションはとても丁寧で、美しい。特に、夢と現を行き来する表現は卓越している。
しかしその半面、コンサートシーンはやや単調。
同じように、ロックコンサートがストーリーの重要な部分を占める英国のバンドQUEENを題材とした映画「ボヘミアン・ラプソディ」と比べると、
・観客にとって初めて聞く馴染みない曲なので、ノリづらい。
・単純に、世界的な大ヒット曲目白押しの「ボヘミアン~」に比べて楽曲の持つ力が弱い
・キャラクターが同じ動作を繰り返す作画が多く、曲も同じメロディをリピートするので飽きてしまう のだ。
ロック界のレジェンドであるQUEENと比べるのは酷だが、映画の構造が「ボヘミアン~」を彷彿とさせるので、どうしても見ている間、頭にチラついてしまう。
そして、QUEENの楽曲と衣装、ライブパフォーマンスは令和の時代に見ても(聞いても)他に並ぶもののない、オリジナリティに満ちている。
しかし、犬王は我々にとって「テンプレート化されたロックスター」なのだ。
橋の上でパフォーマンスする友魚の出で立ちは、室町時代では新鮮だったとしても、我々には既知のものだし、むしろ「ちょっと昔に流行ったやつだよね?」という感覚だ。
しかも犬王の曲は室町時代でありながら(一部琵琶の音を使っているにせよ)ほぼ全てが現代の楽器(エレキギターやベース)で奏でられている。
「室町時代にエレキギターがあるか!」といった時代考証的な不満ではなく、いっそ邦楽の笙や篳篥、琴、三味線あたりを使った方が現代人にとっては「新しかったのではないか」と思うのだ。
つまり「何かすごいものを見ている」というスクリーン上に映し出された室町の聴衆の興奮と、客席の我々のテンションに乖離があるのだ。
このあたりは、「ボヘミアン~」がラストのライブ・エイドのシーンで、スクリーンと客席がシームレスになったかのような一体感を作り出したのとは対照的だ。
<「賛」の部分(この映画の最も重要なこと)>
「犬王」のテーマは、大きく分けて2つ。
①呪いと運命(生と死)
②自分とは何者か
だと思うが、それが猿楽を通じてドラマティックに表現されている。
友魚が琵琶法師になるきっかけは、将軍の使者に依頼され、海底に沈んだ三種の神器のうちのひとつ、草薙の剣を引き上げたことだった。
草薙の剣には平家の怨念が宿っており、剣を抜いた友魚の父は死に、側にいた友魚自身は目を傷つけられて失明してしまう。
しかし平家が本来呪うべき相手は、彼らを滅亡に追いやった源氏一門ではないか?
戦には何の関係もない、しかも源平合戦から60年も経った後、たまたま神器が沈んだ壇ノ浦に生まれ育ったためにその「引き上げ役」を頼まれた漁村の民=友魚とその父を祟るのはお門違いではないか?
犬王にしても、理想の芸を極めるため、悪魔と取引した父親が呪いの元凶だ。
父親は胎児だった犬王の体を悪魔に差し出す代わりに、究極の美の完成を願う。
己の欲望を成就するために何かを犠牲にする必要があるのなら、父親自身が声なり体の一部なりを失うべきなのではないか?
なぜ呪いは、理不尽に主人公たちに降りかかるのか。
それは、この世はすべからく理不尽なものだからだ。
犬王と友魚は、類まれなパフォーマンスで京の人々の人気を得る。
同時に、成仏できずに彷徨っていた平家の怨霊たちを救っていく。
平家の御霊が鎮められ、犬王と友魚は自分の生きる場所を見つける。めでたしめでたしーーーとはならないのが、この作品の注目すべきところだ。
海から引き上げられた草薙の剣が、収められた蔵の中でガタガタと揺れ、血を吹き出すシーンが描かれるが、草薙の剣にかけられた呪いはなぜ解けないのか?
それは、人が生きている限りこの世から呪いが消え果てることがないからだ。
でき得る限りの創意工夫ーーー情熱を注ぎ込んで新しいエンターテイメントを作り上げ、頂点を極めた途端、犬王と友魚のパフォーマンスはすべて否定され取り上げられてしまう。
権力者の一言で、いとも簡単にあっさりと。
「時代がやっと追いついた。」芸術に対して、よく使われる言葉だ。
生前は無名だったアーティストが、後世に評価されたとき使われる枕詞のようなもの。
しかし、これは芸術に限ったことではない。発明しにしろ研究にしろ、時代が変われば評価は変わるーーー持て囃されていたものが否定される(またはその逆)のは世界各国、津々浦々で見られることだ。
生まれる時代さえ違っていれば・・・しかし、人は自分の生をコントロールなどできないのだ。
この冷徹な事実を、この映画はしっかりと観客の目の前に突きつける。
友魚は自分が作り上げた謡を捨てることを拒否し、代わりに自らの命を捨てる。
犬王は友魚の命を救うために「自分」を捨て、ただの平凡な「猿楽師」になることを選ぶ。
自分を生かすために死ぬか、死にながら生きるか。
2人の選択は対象的に見えて、「そこで死を迎えたこと」は共通している。
権力者によって、ふたりは殺された。
皮肉なことに、平家を成仏させてきた友魚は新たな怨霊となって600年も彷徨うことになる。
この世を覆う、呪いの強さ、深さ。
精一杯努力して掴み取ったものが、砂のように指の間をこぼれ落ちていく虚しさ。
「過酷な運命」と言うと、自分の努力次第で覆すことができるのではないか、と人は希望を抱いてしまう。
この映画は、非情なまでに「抗えない運命がある」ことを教えてくれる。
だからあえて、この映画で描かれる理不尽を運命とは呼ばない。そこにあるのは人智を超えたーーー人の営みをただ飲み込み、押し流す歴史という「呪い」なのだ。
※サイエンスSARUが制作に関わったアニメ「平家物語」がよりわかりやすい構造をとっている。見ている我々は平家が滅びることを最初から知っている。
そして劇中の登場人物である琵琶も、先を見通す目で平家の滅亡を知っている。
結末がわかっている物語を、見る意味があるのか?
死ぬことがわかっているのに、生きる価値はあるのか?
意味はある。その強い信念の下、「平家物語」は作られている。
この世に呪いが満ちているからといって、人は生きることを止めない。
犬王と友魚に、「あなたたちのパフォーマンスは将来将軍によって禁止されます。どんなに舞っても謡っても無駄です」と告げたとして、彼らは歩みを止めるだろうか?
たとえ、未来を予知する能力があったとしても、人は「その日がくるまで」生きるのだ。
今この時、確かに自分はここにいる。
死ぬまで生きろ。
それが、最も強いこの映画のメッセージなのだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、ライブ・エイドでのQUEEN復活を高らかに歌い上げて終わる。
エイズに冒されたフレディが亡くなる悲劇的な最期は、エンドロール前の字幕でさらりと触れられるだけだ。
光と闇が同居したスター、フレディの光の部分を観客によりアピールしたい。
そんな意図がはっきり見えるラストだった。
対して「犬王」は、犬王が「本来の自分を封印して、権力者の意向に沿う猿楽師として名を馳せた」ことを字幕で伝える。
天寿を全うした犬王。しかし彼は自分の謡と踊りを捨てた時にすでに死んでいる。
だから後世に彼の作品は「いっさい既存していない」。
つまり、長い間「骸のまま生き続ける地獄」を味わったのだ。
だからこそ、600年後に再会した友魚は犬王を恨んでおらず、互いに無邪気に相手の名を呼ぶ。
互いにとって、相手は何者であったのか。
本来の自分を取り戻すラストシーンが、闇の中に灯るかすかな希望を感じさせた。
混迷する時代に「運命は自分の力で切り開く、努力は必ず報われる」・・・そんな物語を我々は信じられなくなっている。
未来が闇に覆われていても、「今」を生きることはできる。
今を生き抜いていれば、次の瞬間未来だったときは「今」になる。
人には所詮それしかできず、無数の人々が歩みを止めなかったことで歴史は作られてきた。
そんな「事実に気づくこと」が、結果として今の自分を肯定する勇気を与えてくれる。
一見、室町でロックという荒唐無稽な設定でありながら、世の中の理不尽から逃げないとてもリアルな映画だったと思う。
※犬王と友魚のパフォーマンスに熱狂していた名も無い京の町の人々も、戦や飢饉、疫病に苦しみながら死ぬまで生きたことだろう。
しかし、我々は彼らの物語を知らない。歴史に名を残すのは、権力者が書き留める価値を認めたほんの一握りの人間にすぎない。
すべての人々の物語を拾い集め、語り継ぐのは最初から不可能なのだ。
(=だから、この世から呪いが消え去ることはない)
「不可能」に無謀にも挑戦した2人の主人公。
しかしこの映画を見終わった後、観客は知っている。
彼らの生き様が無謀であっても無駄ではなかったことを。
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※友魚が「友一→友有」と名前を変え、父に「名前が変わると探せなくなる」と言われるシーンは象徴的だ。
犬王は自ら「犬王」と名乗った。自分が何者であるのかを宣言するーーーそれがこの映画における名乗りの意味だろう。
そして「本当の自分」はひとつではないし、絶えず揺らぎ変化していくものであることも教えてくれる。
※犬王の父の望みは成就している。究極の美を手に入れるのは父自身ではなく、息子の犬王によって達成された。
「究極の美とは何か」という真理の探究ではなく、自分個人の栄達の道具として美を求めたために、父は命を落とすことになった。
「自分」の芸に拘泥せず、一門の芸の完成に視野を広げることができたなら、犬王の父は救われたのかもしれない。
人間をひとりひとりの人生単位ではなく、人類レベルの視点で俯瞰できればーーー歴史に名が残らない凡夫でも、人類の歩みに蝶の羽ばたき程度の影響は与えられるのかもしれない。
逆説的に、犬王の父はそれを教えてくれているように思う。