夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

宇宙よりも遠い場所

※話題のアニメ、宇宙よりも遠い場所1話だけ観ました。
1話見たところで脱落してしまったので、ファンの皆様には非常に申し訳ない感想になっています。
あくまで1話までの感想、2話・・・と見進められなかった理由です。
 
1のみ視聴。
自分の年を感じた。全く誰にも共感できない雫

まず、報瀬が100万円を現金で持ち歩く理由がさっぱりわかりませんでした。
今すぐ、現金で100万円を支払う必要があるのか?と思いながら見進めたけれど、そんなことはない。
「自分は南極へ行くのだ、その本気度を示すために100万円を銀行から下ろしてきた」ということだと理解したけれど、それにしては落としてから普通に学校へ登校しているのが謎すぎる(^^;)
 
学校に着くまで、落としたことに気づいていなかったとして。
普通に授業を受けるなんて、私にはムリ。
「体調が悪い」なり何なり理由をつけて学校を飛び出し、今日自分が歩いてきた道を急いで引き返して探す。

駅で落としたことに気づけば、半狂乱で駅員に尋ねるなり、駅構内で大騒ぎするはずなので(←普通、落とした場所ですぐ探すのが最も発見率が高い)その時点でマリと出会えるよね・・・。
 
マリと報瀬は同じ学校なのだから、降りる駅も同じはず。
学校に近い改札は恐らく1か所(多くても2か所)程度だろうから、騒いでいる女子高生がいればすぐ気づくだろう。

それなのに、学校に行くまでマリは報瀬が100万円の落とし主であることを知らない。
これは恐らく、「黒髪さらさらヘアーから香るシャンプーの匂い」という描写をしたかった「だけ」だと思うのだけれど、その描写のためにリアリティという最も大切なものを犠牲にしているように思う。

女子高生が南極へ行くというのは、どう考えても「ありえない」話。
それを物語の核にすえて、これから視聴者を引き込もうとするなら、リアリティを極限まで追求しないと嘘に嘘を重ねる砂の塔のようになってしまう。

ゾンビにしろ、ファンタジーにしろ、「ありえない」世界を描くときには、その世界の歴史、言語、人種、マップなどガチガチに固めて初めて自由に「作り話」ができる
指輪物語は「今から物語が始まる世界がどんな場所なのか」を語ることに相当のページ数を費やしている。
作者と読者(視聴者)の間で、「この世界におけるルール」を共通認識として構築することが不可欠なのだ。

女子高生が南極に行くというのは、エルフやドラゴンが登場するファンタジーと同じくらい視聴者に「これならあり得る」と納得させる作業をしなければならない。
それくらい「荒唐無稽」な設定だ。

それなのに、報瀬が南極へ行く理由は「南極で行方不明になった母親を探すため」だ。
視聴者の多くの人は、こう思うのではないだろうか。
「え・・・どう考えても、もう生きてないよね・・・」と。

主人公が高校2年生という設定が、さらに状況を厳しくしている。
これが小学校1~3年生程度の「男の子」なら、「お母さんを探しにいく!」というのは微笑ましくもいじらしい話として成立する。
母親がたとえ何年も前に行方不明になっているとしても
・南極がどんな場所か、幼い子供には正確に理解できない
男の子は(多くの場合)、危険に挑んだり、困難に立ち向かう向う見ずな傾向がある。
・「もう死んでいる、無駄だ」と周囲の大人が思ったとしても、子供の純真な心を守るために協力したいと考えることは不自然ではない。

しかし、これが高校2年生になるとかなりの分別があるはず。
少なくとも、何年も南極に放置されている人間が生きていられるかどうかがわかる程度には。

「自分でアルバイトをしてお金を貯める」という描写のためには、小学生であってはいけない。
しかし、「高校生にもなって、うーん、あまり現実的じゃないかな~(^^;)」と視聴者に思われるくらいなら、小学生の「ジュブナイル作品」にした方が良かったのではないかしら。

勿論、「南極へ行く」というのはフレーバーテキストのようなもので、この作品の本質は
「閉塞した現状を、もがき苦しみ、友達とぶつかりながら打開していく可愛い女の子たちの旅立ちの物語」なのだろう。
それなら、南極以外に、もっと簡単に視聴者を引き込める設定があるように思う。

それが「ゆるキャン△」だと私は思うのだけれど。