夫婦でボードゲーム

夫婦でボードゲーム

ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

シン・ウルトラマン感想<ネタバレあり>

シン・ウルトラマンを家族(夫、娘:中3、息子:中1)と鑑賞しました。

私と夫は初代ウルトラマン現役世代ではなく、各エピソードはほとんど覚えていない状態。

子どもたちは、つい最近までBSで再放送されていたウルトラセブンをちょこっと見たことがある程度。

そんな初代にまったく思い入れがない人間が見たシン・ウルトラマンとは?

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見終わった直後の感想は「面白かった!でも何回も見るほどではないかな。」

上映開始5分で世界観を説明し、禍威獣とウルトラマンの戦いになだれ込んでいくスピーディーな展開。外星人の個性的な言動、右往左往する政府の役人・・・どれも過不足なく盛り込まれていて、CMを見て期待していた通りの「ウルトラマン」だった。

チケット代分は十分楽しめた!そんな満足感。

 

しかし、帰宅して米津玄師の「M八七」をリピート再生しているうちに、何度も映画の内容を反芻し、じわじわと面白さが拡大していった。

それは一体なぜなのか?

 

シン・ゴジラとの比較>

シン・ウルトラマンシン・ゴジラと異なる点は、ヒトを超えた種族が作品世界に存在すること」だ。

ウルトラマン出現以前、自衛隊と禍特対は禍威獣4体を自力で倒している。

敵の弱点を見つけ、効果的な作戦を立案し結果を出しているのだ。

(おそらくシン・ゴジラで我々が目撃したヤシオリ作戦のような戦いが繰り広げられていたに違いない。)

しかし、ここでヒト以外の知的生命体が登場する。

ヒトに好意的で、進んだ科学と優れた身体能力を持ち、地球を守ってくれる神のような存在:ウルトラマンの飛来。

それは、ヒトがヒトの力だけで禍威獣と対峙することを放棄するきっかけになった。

シン・ゴジラがあくまでもヒトの持てる力だけで怪獣と戦ったのに対し、シン・ウルトラマンでは「外星人に地球の未来を託す」ことになるのだ。

 

シン・ゴジラのサブタイトルは「虚構対現実」

虚構であるゴジラに立ち向かったのは、あくまでも現実の人間だ。

戦車、戦闘機、電車、コンクリートポンプ車。ゴジラの活動を停止させるために働いたのは、どれも我々の住む世界に実在するモノであり、それを動かしたのは名もなき自衛隊員や鉄道会社職員、建設作業員たちだ。

未曾有の危機から日本を救ったのは、誠実に「普段の仕事を、いつも通りに粛々と遂行する」プロフェッショナルたちだった。

困難に立ち向かう「普通の人々」の姿が感動をもたらし、カタルシスを生んだのだ。

※それはあたかもNHKの「プロジェクトX」や「プロフェッショナル」を見終わった時のような感動だっただろう。

 

しかし、ウルトラマンでは「人間よりあらゆる面で圧倒的に優れた外星人」が作品世界に存在することで、同じ構造を取ることができないのだ。

 

<そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン

ウルトラマンの超人的な力に頼り、形ばかりの後方支援に回る日本政府。

彼が戦う様子をスマートフォンで撮影し、ネットにアップする野次馬たち。

物語中盤、独り体を張って戦うウルトラマンと、集団に紛れて個々の責任を放棄する人間たちが描かれる。

しかし皮肉なことに、この人類の「堕落」は、ある意味ウルトラマンがもたらしたものなのだ。

ヒトを超える力を持ち、しかもヒトに対して友好的で自己犠牲も厭わないような慈愛に満ちた存在ーーーウルトラマンがヒトを甘やかすことで、ヒトはウルトラマン、頑張って!」と彼を応援する傍観者の立場へ退いてしまうのだ。

 

驚くことに、この「ウルトラマンさえいれば、地球人はもう何もしなくて良いのではないか?」という問いは初代ウルトラマンの時点で提起されている。(第37話)

超人が存在することの構造的な問題は、避けがたいのだ。

 

ヒトはこのまま情けない「庇護されるべきもの」で終わるのかーーー

中盤以降、外星人たちの優れた科学力を見せつけられ、自信を喪失する非粒子物理学者、滝の姿が無力なヒトの代表として描写されるが、後半滝は一転して戦いの舞台へ帰ってくる。

滝を奮い立たせたのは、ウルトラマンから人類へ向けられた信頼と友情だった。

 

ウルトラマンは禍威獣を撃退する物語ではない>

結論から言うと、ウルトラマンが人類にもたらした福音は「禍威獣から地球を守る」ではなく、「人類は宇宙に存在する価値がある」という全肯定だ。

 

シン・ゴジラ「人間の血と汗と努力によって、自ら存在意義を勝ち取っていく物語」であるならば、シン・ウルトラマンは「神に近い存在が、地球ごと包み込むような無償の愛で『君たちはここにいて良いんだ』と人類を祝福してくれる物語」なのだ。

 

光の星の掟を破ったウルトラマンを母星に連れ帰るため、M87からやってきたゾーフィは自らを「裁定者」だと名乗る。

人類に対して、生殺与奪権を握る絶対的な存在だと言ってのけるゾーフィは、シン・ウルトラマン世界にやってくる外星人の思考を代表する存在だ。

地球人レベルの知的生命体は全宇宙に無数に存在し、そのひとつが滅んだところで何の影響もない。

自分たちにとって無害で、利用価値がある間は生かしておく。それが彼らの基本スタンスだ。

その中で、ウルトラマンだけが異なる価値観を持っている。

 

群れを作らなければ生きられない、互いに補完し合わなければ社会が破綻するヒトという生き物。

しかもヒトは、外星人に比べ寿命が短い。個としての能力や知識の蓄積が浅いまま次の世代に道を譲るしかない。

ウルトラマンの寿命は20万歳くらいらしい。日本人の平均寿命が約80歳なので、2,500倍長生きということになる。

人間から見て1/2500の寿命の生き物はワムシ(動物性プランクトンの一種)だ。

 

単体で完結しているウルトラマンは、長い寿命の中で知恵と経験を蓄積し、さらに生き物としての完成度を高めていく。

しかし、彼らに比べて一瞬の時間しか生きられない人類は、未熟ではあるがその世代交代の速さゆえに「新しいものを生み出す柔軟性」で優れている。

ウルトラマンにとって人類は花のようなものだ。

芽吹き、成長し、美しく花を咲かせ、醜く枯れ落ちる。しかし、枯れた根本には、次の世代を担う種が蒔かれているーーーー。

偶然落下した星で、初めて目にする花と出会い、ふと足を止め「なんて美しい花だろう」と思った瞬間、彼は地球を守ろうと決めたのだろう。

 

ヒトも、乾いて枯れそうな花を見れば心を痛め、水をやり、支柱を立てる。

それは自分より弱く儚いものへの愛憐と、慈しみの心だ。

しかし、花を美しいと感じる心に理由はない

「ただ、ずっとこの先も咲き続けてほしい」と願うとき、この世には(宇宙には)知的生命体の智を超えた真理があまねく支配していると気づくのだ。

 

ウルトラマンの物語が人の心をうつのは、地球の中だけに収まっている狭い視野が、強制的に宇宙規模へ拡張されるからだ。

地球上で最も知的に発達した生物だと自負している人類も、宇宙規模で考えれば赤子のようなものかもしれない。

突然、宇宙から進んだ科学力を持つ外星人が攻めてきて、為す術もなく蹂躙されるかもしれない。

その視点は、「環境を守りましょう。地球を大切にしましょう。」と日頃、当然のように使っているフレーズが、人類の思い上がりであることに気づかせてくれる。

 

そして、ウルトラマンは決して神ではなく、失敗もすれば能力に限界もある。

それが「ヒトもまた、庇護されるだけのか弱い生き物であってはいけない」ことを教えてくれる。

 人類だけで禍威獣や外星人を退けることはできないが、ウルトラマンを支え、共に戦う知恵を持っていること。

 絶望的状況でも、ウルトラマンの信頼を勝ち取った誠実さと懸命さを失わないこと。

人類も捨てたものではないーーーーシン・ゴジラのように「積極的な自己肯定」ではなく、「できることに、可能な限り全力で取り組む。そしてその限界は、決して突破できないものではない。ヒトがひとりではなく、繋がり合って協力し合うならば。」

そんな身の丈にあった肯定感を味わうことができるのが、シン・ウルトラマンだと思うのだ。

 

※米津玄師の「M八七」は、シン・ウルトラマンの「命」とも言える部分を見事にすくい取っている優れた曲だ。

エンドロールに流れるこの曲を聞き終わるまでが、「映画の鑑賞体験」だと思う。