夫婦でボードゲーム

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ボードゲームにハマった夫に付き合ううち、嫁が積極的にボドゲ購入するように。ボドゲ初心者から、ようやく中級者になってきた日常を、2人で遊んで楽しいボードゲームを中心にまったり綴ります。(時々、映画・ドラマの感想など)

シン・エヴァンゲリオン感想<ネタバレあり>③ヴィレ女性クルーについて

シン・エヴァで変化した女性キャラたち。大人としての責任を果たすということ

 

ヴィレの女性キャラ3人(葛城ミサト赤木リツコ伊吹マヤ)は新劇でわかりやすく「女を捨てた」。

 

マヤは、旧劇では戦自に攻撃されても銃で応戦せず、机の下に隠れて泣くばかりだった。

当時、旧劇を見ながら戦自がネルフ職員を容赦なく殺していく場面で、戦自に対して怒りを覚え、マヤの「普通の人の感覚=たとえ自分が死んでも、人殺しをするよりマシ」に共感した。

けれど、すぐ思い直した。マヤは軍人なのだから、マギやエヴァンゲリオンを敵に奪われないように防衛することが職務。その遂行のためには武器をとって反撃するべきなのだ。

一見非道に見える戦自に所属する人々も、ネルフ職員に私怨はなく「仕事」を粛々とこなしているにすぎない。

 

新劇のマヤは年下の男性部下を叱咤し、危険な状況下でも仕事を全うしようとする(そしてそれを他人にも期待する)冷徹さを身に着けている。

恐らく今、ヴンダー艦内で銃撃戦が起きたら、彼女は迷いなく敵を撃つだろう。

 

リツコはゲンドウとの愛人関係を匂わす描写がバッサリカットされ、キャラクターとしての立ち位置が「人類が生き残るために、自らの科学力を捧げる研究者」としての役割に絞り込まれている。

※TV版~旧劇でリツコがゲンドウと愛人関係にあったのは、リツコほどの頭脳明晰な女性が、ゲンドウの自分勝手な人類補完計画に深く関わり、協力する動機が「男女の仲」くらいしか思いつかなかったからではないかと(個人的には)思っている。(それはリツコの母、ナオコも同じ)

 

無愛想で高圧的、独善的なゲンドウが、女性にモテモテなのがどうしても違和感があるのだが、合理的な説明がつかないことは「恋愛」という「理屈で説明できないこと」に押し込めて蓋をしているように思えてならない。

新劇ではリツコが担っていた人類補完計画の核心部に迫る立ち位置を冬月コウゾウに移すことで、リツコをゲンドウの呪縛から解放している。

物語の構造の整理としては、大成功だったと思う。

(シン・エヴァでリツコが問答無用でゲンドウの頭を銃で吹き飛ばす場面は、TV版~旧劇の彼女の最期を知っている観客への目配せだろう。見ていて素直にスカッとした。)

 

 ミサトはマヤ、リツコと異なり「子供を産む」というもっとも女性らしい出来事を経ながら、自分の意志で女を捨てている。

 

加持リョウジ(恋人)が、

・海洋生物研究所でセカンド・インパクト以前の海を取り戻すために活動していたこと

・来たるべきサード・インパクト、フォース・インパクトから地球上の生命を守るため、「方舟」を作ったこと

・彼とミサトの間に子供が生まれたこと

は、同じ重要な意味を持つ。

 

子供は、両親の遺伝子を半分ずつ引き継いで生まれてくる。

いわば子供は、親の遺伝子を残すための「方舟」なのだ。

 

これは、物語の終盤ゲンドウがシンジの中に亡き妻ユイの姿を見つけて「そこにいたのか、ユイ」と漏らす場面に繋がっている。

 

加持リョウジ(恋人)が地球上の種を保存し、いつかこの星を元の生命が満ち満ちている状態に還そうと尽力していたこと。

ミサトがそれを理解し、自分の中に託された彼の遺伝子を未来に残そうとしたこと。

 

それと対比することで、観客は終盤のシンジとゲンドウの戦い+対話の場面において、より強くゲンドウの悲劇性を感じることができる。

ゲンドウは自分自身の望みのために、シンジと向き合うことを避け続けた結果、皮肉にもその望み=妻との「再会」を果たすまで14年も費やしてしまった。

 

葛城ミサトというキャラクター

TV版~旧劇まで、ミサトはシンジの保護者になるはずが、自分のトラウマに引きずられて「大人になりきれない大人」として中途半端な立ち位置にあった。

一番違和感があったのが、旧劇の「Air」で戦自にネルフが武力制圧される中、ミサトがシンジをエヴァ初号機まで送り届けるシーン。

「大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょう」

一般的にはミサトがシンジを大人の男として扱った名場面扱い・・・になるのだと思うけれど。

 

保護者に徹しきれず、女の部分が時折どうしても顔を出してしまう、ミサトの生々しさが現れたシーンだと思う。

 

TV版~旧劇のミサトの生々しさ

TV版23話では、レイを失って落ち込んだシンジのところへミサトが行き、「シンジ君。今の私にできるのはこのくらいしかないわ。」と言ってシンジの手を握ろうとする。

「やめてよ!やめてよミサトさん・・・。」

ここでは、ミサトはシンジにはっきり拒絶されている。その後に続く

「(寂しいはずなのに。女が怖いのかしら。いえ、人との触れ合いが怖いのね。)」

というミサトのモノローグで、彼女が保護者として彼を慰めようとしたのではなく、「女の武器」を使おうとしていたことが伺える。

 

冷静に考えると、これはかなり怖い。

29歳の大人の女性が、自分の家に引き取った14歳の少年に性的な関係を迫るというのは、エロ漫画では許されても現実世界では犯罪だ。

※男女の設定を入れ替えて想像してみれば、ゾッとする人は多いのではないだろうか?

そしてフィクションのアニメ世界においても、体の関係(一時的な快楽)で嫌なことを忘れるのは、問題の先送りに過ぎない。

ミサトは、加持との関係でそれを嫌というほど味わったはずなのに、また繰り返そうとするのか・・・と当時複雑な心境になったの覚えている。

 

この部分について、「スキゾ・エヴァンゲリオン」のスタッフインタビューの中でちらっと触れられている。

  

 鶴巻 「ミサトをやっぱりちゃんと描かなければならなかった。本当は初期設定というか、このポジションにいる女だっていうところを、ちゃんと決めて描いていくことが、作品としてやるべきことだった。ところが、肩入れし過ぎていく過程で、ミサトはシンジとはなんの関係もない女になっていくという。あれはやっぱりね。」
貞本 「生々し過ぎるんだけど、その生々しさが・・・。」
鶴巻 「いいんですけどね。それはいいんですけど。」
貞本 「作品の中にはまってない。」

鶴巻 「そう。作品を高める役にはなってないっていう感じですか。ミサトのキャラクターだけが立って、あれで泣いた女もいるっていう話を聞きますけど。作品の中には、別にはまってないと・・・。

                庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン太田出版

 

TV版・旧劇のミサトの振る舞いは、当初意図されていた「シンジを支え、守る保護者」の役割から次第に逸脱していったことが伺える。

 

新劇で一番大人になったのは、シンジではなく実はミサトだと思う。

やっと本来の「意図された役柄」になれたということだろう。

 

ミサトは、序の時点から「責任はすべて私にあります」と繰り返し、大人としての責務を果たそうとしてきた。

息子の加持リョウジと会わないと決めたのは、育児放棄ではなく彼を始めとするサード・インパクト後の世界を生きる子供たちの命を守ることが、自分の使命だと思い定めたからだろう。

 

・世界の破滅を目論むネルフにかつて籍を置き、(知らぬこととはいえ)ゲンドウの計画に加担したこと。

・終局へと向かう絶望的な世界に、子供を産み落としたこと。

・シンジにニアサード・インパクトの罪をすべて押し付ける形になったこと。

 

それらが重い足枷となり「子供を産んだから、その子のために戦場を離れて母親として生きる」という選択肢は、ミサトにはなかったに違いない。

 

シンジは、加持リョウジ(息子)のことを「良いやつだったよ。僕は好きだよ」とミサトに告げる。

両親がいなくても、リョウジはまっすぐな好青年に育っているようだ。

リョウジはケンスケを始めとする第三村の人々と良好な関係を築き、自分の居場所をしっかり持っているのだろう。

ミサトは彼と直接会うことはなくても、折に触れて遠くから彼を見守り続けてきたのではないだろうか。

第三村が手厚くヴィレによって封印柱で守られていること、エヴァパイロットに不測の事態が起きた時、一時避難する場所が第三村のケンスケの家になっていることは、リョウジがそこにいることと無関係ではないだろう。

 

新劇では、ミサトにとって実の息子リョウジと並び、シンジはもうひとりの「息子」だった。

ミサトはやっと大人としての領分を守り、シンジと接することができるようになった。

彼女が寄りかかることができるのは、かつては加持リョウジ(恋人)であり、リョウジ亡き後は長年の友人リツコだけだ。

全員が大人として自分の足で立ち、他人に責任転換せず、自分の責務を果たしている。

 

シンジに新しい槍を届け、ヴンダーとともに爆死したミサトの最期、

「リョウジ、ごめんね。母さんあなたにこれしかできなかった」は、自分で自分の成すべきことを選び取り、使命を全うした末にようやく母親に戻れたミサトの「本心をやっと吐露できた」場面だった。

 ※旧劇の「加持くん・・・わたし、これで良かったわよね」の、他人に自分の決定の是非を問いかける最期とはまったく違う。

 

「自分のやったことに落とし前を着ける。」

新劇を貫くテーマのひとつを、もっとも体現していたのは、ミサトだった。