2019年3月30日 立川志らく独演会
夫と一緒に、立川志らく独演会に行ってきた。
場所は須崎市民文化会館。座席数964席で、落語を聞くには、ちょっと箱が大きすぎる。
今回はチケットを取るか否か迷っていたため、意を決して取ったときには2階席しか空きがなく、演者と距離がありすぎたのも良くなかった。
<演目>
①前座 立川志らぴー「ちりとてちん」
~中入り~
③立川志らく「紺屋高尾」
①「ちりとてちん」
志らぴーさんは、志らくさんの18人いる弟子の末弟とのことで、正直まだまだ。
声は出ているのに、滑舌が悪くて言葉が聞きとりにくい。
「ちりとてちん」では、善人で愛想の良い隣人がご馳走を美味しそうに食べ、お世辞を言う場面と、無愛想で憎まれ口をたたく嫌われ者の男が、腐った豆腐を「ちりとてちんという珍味だ」と騙されて食べる場面の対比が面白い話。
今回の志らぴーさんの噺は、善人がお世辞を言う場面がやたらと長く、嫌味を言う男が知ったかぶりをして腐った豆腐を食べる羽目になる後半が短かかった。
後半こそ、肝心だと思うんだけど・・・。
全体的にバランスが悪い印象。
②「幇間腹」
鍼灸に凝った若旦那、枕や自分の飼い猫に針を打ってみるが、いまいち面白くない。やはり人間に打ちたいと、馴染みにしている幇間の一八を呼んで、ご祝儀と新しい着物をやるから針を打たせろと迫る。
渋々応じる一八だが、独学の若旦那の針の腕前は酷いもので、あやうく死にかける・・・というお話。
志らくさんのまくらが、やたらと時事ネタ(体操の宮原選手のパワハラ問題や、内田裕也さん、ショーケン死去の話など)で、ワイドショーのコメンテーターをやっている志らくさんを見て落語会にやって来た人向けに話しているのかな?という印象。
「幇間腹」自体はわかりやすい噺だけれど、若旦那と一八のやりとりを詳しくやりすぎると「いじめ」のようになりかねないので、さじ加減が難しい。
今回はさらっと軽くやっていた。
しかし、「幇間」が今の世の中ではピンとこないお客さんも多いようで、まくらでやたらと「幇間」とは何かを振っていた。落語の基本的なことばが通じない、難しい時代になったのだなぁ・・・。
③紺屋高尾
志らくさんの紺屋高尾は、
・恋煩いで紺屋の職人・九蔵が寝込んでいる場面
・医術の腕は悪いが、遊びなれている風流人、医師・藪井竹庵の会話
・高尾太夫と九蔵が会えるよう、手はずを整えるお茶屋の女将との会話
・職人であることを隠して、醤油問屋の若旦那として吉原で振る舞う九蔵
・高尾が来年3月15日に年季が明け、九蔵の元に嫁いでくるという。それを心待ちにする九蔵の様子
どのパートにもギャグが入っていて、盛り沢山。
盛り沢山になりすぎて、九蔵のキャラクターが軽くて薄っぺらになっているように感じた。
例えば、九蔵が吉原に行くにあたり、藪井竹庵から「若旦那のフリをするためには、鷹揚に構えて、何事にも『はいはい』と答えていれば良い」と言われる場面。
九蔵は泰然自若に「はいはい」ということができず、演技しようとすればするほどおかしな言動になり、「ひゃいひゃい」というような珍妙な声が出てしまうという演出になっていたけれど、しっとり見せるべき場面でも「ひゃいひゃい」言っているので、高尾との真心の交感が真に迫ってこない。
高尾が来年3月15日に嫁に来ると決まってから、志らくさんの噺では九蔵は仕事が手につかなくなり、ぼーっとして庭の花をむしっては「3月15日に高尾は来る・・・来ない・・・来る・・・」と花占いをして過ごす始末。
それだけ有頂天になっているということだろうけれど、ここは、仕事に今まで以上に邁進して、いずれくる高尾のために、恥ずかしくない人間になろうとする男気を見せてほしかった。
そうでないと、九蔵に惚れた高尾の値打ちまで下がってしまう。
お茶屋の女将のキャラクターもただのギャグ要員になっていて、花魁と交渉する遣り手のイメージがぶち壊しだった。
吉原のしきたりや風情を描写することは、吉原が遠い時代の彼方に消えた現代だからこそ必要で、それがなければ聞き手のイマジネーションが働かない。
吉原の大門をくぐると、そこに広がる非日常の世界。その華やかで残酷な姿が噺家を通して立ち上ってこないと、あえて廓噺をする意味が薄れてしまう。
雲の上の存在である太夫に、手を尽くしてようやく会える→会っただけでなく、一夜を共にして結婚の約束まで交わす。そのドラマチックさは、そこにいたるまでが困難であればあるほど盛り上がるはずなのに・・・。
醤油問屋の若旦那と身分を偽っていた九蔵の正体がバレた時、志らくさんの高尾は煙管で九蔵の額を打ち、怪我までさせる。
気位の高さと、最高位の太夫であるという責任感の現れる場面だけれど、高尾ほどの女性なら、「ひゃいひゃい」返事をするような男が本当に醤油問屋の若旦那だとは思っていなかったのでは?
この「煙管で九蔵を打つ」演出は、よほど上手くやらないと高尾のキャラクターを崩壊させてしまう気がする。
(そして、今回その演出で聞いてみて、あまり成功しているとは思えなかった)
志らくさんの紺屋高尾で、良かった点も勿論あって、ラストは素晴らしかった。
紺屋の女房になった高尾が、自分の指先が藍に染まって紺色になったことを喜ぶ。
ようやく苦界から抜け出して、人並な幸せを手に入れた象徴的な場面。
そして、そこに続けて「子供ができた」ことを九蔵に告げる。
九蔵「そうか・・・!(喜びを隠せない様子で)いつ生まれるんでぃ?」
高尾「来年3月15日」
この3月15日のリフレインで締めるのは、ストーリーと無理なく馴染んで、今後の2人の幸せな暮らしも暗示していてとても爽やかだった。
これでもかと入れ込まれたギャグを整理して、本当に必要なものだけ残したシンプルな語りの方が、このラストが活きると思うんだけど・・・。
帰宅してから、談志師匠の「紺屋高尾」と志ん朝さんの「幾代餅」を聞いた。
談志師匠は、落語を語りながら生身の談志が表に出てきて、落語に対する感想を言ったりするので、それが噺をぶった切る辛さはあるけれど、噺の構造自体はとてもシンプルに纏めている。
高尾太夫が年季が明けて、九蔵の元へやってくる場面の九蔵のリアクションも、腑に落ちる。
談志師匠自身が何をこの噺で表現したいのか、とてもハッキリしているのでキャラクターがブレない。
志ん朝さんの「幾代餅」は紺屋高尾より整理された筋で、無駄がない。
泣かせてやろうという演出が一切ないので、「人情噺」と身構える必要もない。
語り自体が歌のように美しく流れていくので、とても心地よく聞いていられる。
明るくて華やかで、ハッピーエンドに素直に拍手したくなる。
幾代餅の方が、気軽に聴けて好み。
紺屋高尾が優れている点は、「指先に消えない藍色がある」その鮮やかな色彩だと思う。そこをありありと感じさせてくれる噺に出会えたら、紺屋高尾の魅力がぐっと高まる気がする。
しかし、今年1月に立川談春さん、本日立川志らくさんを聞いたけれど、このお二人の背後に談志師匠の亡霊が見えた・・・。
あまりに強烈な個性を持つ人が師匠だと、嫌でもその影響下からは逃れられないということなのか・・・。
談志師匠を直接知らない世代のお弟子さんが、今後どうなるのかが楽しみ。